先日、筆者(独眼鉄)が勝手に師匠と崇めて(あがめて)いる先輩ブロガーさん(面識はない)のブログに「今の時代、教育の世界は聖域でも何でもなく一種のサービス業の世界になって、価値や意味のあるサービスを受けられなければ教育の世界も存在価値はなくなる」といったことを言っておられた。このことに筆者も同感である。

筆者は自分のブログで何かや誰かの存在を否定したり叩いたりすることは極力避けるようにしているが(筆者自身成り上がりたい訳ではないが、これから歳を重ねるにつれ否定から入る年寄りにはなりたくないと思っているので)、しかし今の教育界は自分たちの存在意義を問われているように思える。

よく思うのだが(以前にも言ったが)日本人の大半は高卒か大卒・専門卒のいずれかであって、ほとんどの日本国民の成人は高等教育を受けているのである。しかし以前にも言ったが(筆者のブログ・2013年7月16日号・『「完ぺき」は「完璧」か?』参照)完璧という漢字を書けなくなり、歴史認識は誰も知らなかったり、英語は誰も話せない。本来皆教育を受けているのでみんな完璧なはずである。しかしできてない。できない人を否定したいのではなく、日本の教育は本来の自身の役割を果たしているのかが大きな疑問符がつく。

バブル期ぐらいまでは大学が生徒に優良な雇用(就職先)を斡旋して(また授業料を支払い)、その代わり生徒は教授の研究を邪魔しない、といった一種の相互依存のような状況があったが(雇用を斡旋できる大学が「いい大学」であった)、平成大不況とIT革命や製造業からサービス業への転換により日本社会の産業構造が根底から変わり、今までの教育界の就職斡旋のシステムが機能しなくなっている(今の新卒はそれを実感している)。

産業構造や社会構造が完全に変わっているのに、既存の日本の教育界は過去のやり方を踏襲しているだけにしか見えない。今の時代は大学の名前という看板は全く通用しなくなり、大学の名前よりも「あなた」は何ができるのか?という時代になっている。過去の名前を引きずってキャンパスの大講堂に学生を何百人と押し込めて、滑舌の悪い教授の話を学生を飽きさせるような話し方で延々90分も聞いている授業が本当に必要なのか筆者は疑問である(学生も気の毒だ)。

以前お世話になっている人からハーバード大学のM・サンデル教授の講義を勧められたが(筆者は番組は見なかったが)、サンデル教授の本は読んでみた。

本を読んで彼が優れた考えの持ち主なのはわかったが、彼の講義が大人気なのは彼の大学の名前というよりサンデル教授個人の名前が強いように感じる。番組を見た訳ではないが、大学での彼の講義は(筆者は英語のノンネイティブなので聞いてもついていけないだろうが)、ネイティブの学生が聞く分にはサンデル教授の言葉は滑舌がよくリズムもあって、聞く側(学生)が聞いていて聞き取り易く教授自身が学生を授業に飽きさせない工夫をしているのだと筆者は感じる。サンデル教授自身がある種の超一流のサービス業の従事者のように感じる。

今の時代、老舗の看板が通じなくなったと言われるが学歴もまた同様である。教育の世界も聖域だからと言って上から物を言っても話を聞いてもらえない時代である。教育=サービス業のように接客ではないが内容のある話を学生に噛み砕いて教えることが必要で、それができないと大学も淘汰されるであろう。