上記の2つのスポーツ組織。一見すると何の関連性もないような気がするかもしれないが、1つ共通するところがある。それは「周囲のことと逆の行動をとった」ということである。
まずはサッカーからいこう。今年(2014年)はワールドカップイヤーなのだが、今でこそワールドカップという大会は全世界で何十億人の人々が注目する世界的なメガスポーツイベントに発展したのであるが、最初にワールドカップという構想ができた時は「ワールドカップって何?」と言ったぐらいの感覚しかなかったのである。もともとワールドカップ自体は1930年の第1回ウルグアイ大会がスタートとなり、今年のブラジル大会で丁度20回大会という節目の大会であると同時に大会そのものも歴史の浅い大会なのである。
前述のようにワールドカップは1930年にスタートしたのであるが、もともと発案したのはジュール・リメというフランス人で彼の構想からワールドカップは始まったのである。しかし最初開催するにあたってヨーロッパや南米のビッグクラブはこぞって「そんなワールドカップなんて大会は嫌だ!」「自分(クラブの会長)が身銭を切って雇っている大切な選手が、そんな有象無象な大会で怪我したらどうする!」と反発が強く、(今では考えられないが)協力者が少なかったのである(こういういきさつは21世紀に入った今でも、野球WBCでもアメリカでメジャーが同様のことを言っている。「歴史は繰り返す」である)。
そんな逆風の中でジュール・リメに救いの手を差し伸べたのがウルグアイサッカー協会である。ウルグアイは当時からサッカー熱が高く(今でも小国ながら強豪だ)、国の景気良かった上に第1回大会の1930年がウルグアイの独立100周年という記念の年ということもあってワールドカップの第1回大会が開催できることになった(余談だが第1回大会の費用も当時のウルグアイ政府が負担したという)。そして映えあるワールドカップ第1回大会の優勝国もウルグアイである。
こうした経緯があってワールドカップが成り立ったのだが、次は卓球であるが何故中国はあれだけ卓球が異常なまでに盛んで強いのかと言うと、やはりこちらも強くなったいきさつがあったのである。
中国が卓球の総本山のようになったのも理由は沢山あるが、その1つに政治的な理由も要因としてあった。1950年代に日中戦争後に中国は国民党(台湾)と共産党(北京)に分離した。当時の国際政治では2つのチャイナを認めておらず北京政府(中国)は国際的に孤立しており、あらゆるジャンルでチャイナといえば中華民国(台湾)を支持していたのである。
しかし国際卓球連盟は政治や宗教的理由によって選手(この場合は卓球選手)が競技の出場機会を奪わないし連盟の加盟を妨げないという[オープンドアポリシー]を掲げていて、国際的に孤立していた中国のスポーツ選手の競技の受け皿に卓球は果たしたのである。その中国卓球界は文化大革命で60年代末から70年代初めに一時低迷するも、80年代には復活し現在では卓球の世界ランキングのほとんどが中国人になったのである。
この経緯を見て思い出すのは「人の行く 裏に道あり 花の山」と言う川柳で、もとは相場師の言葉とも言われている。昨今の日本でKYだの空気読めだの周囲の同調圧力を強める言葉ばかりが増えているが、本当に必要なのは自分の意思で社会の意識(空気)を変える気持ちなのかもしれない。
参考文献 サッカーを知的に愉しむ 林信吾・葛岡智恭著 2002年 光文社新書、R25 2008年6月19日号
まずはサッカーからいこう。今年(2014年)はワールドカップイヤーなのだが、今でこそワールドカップという大会は全世界で何十億人の人々が注目する世界的なメガスポーツイベントに発展したのであるが、最初にワールドカップという構想ができた時は「ワールドカップって何?」と言ったぐらいの感覚しかなかったのである。もともとワールドカップ自体は1930年の第1回ウルグアイ大会がスタートとなり、今年のブラジル大会で丁度20回大会という節目の大会であると同時に大会そのものも歴史の浅い大会なのである。
前述のようにワールドカップは1930年にスタートしたのであるが、もともと発案したのはジュール・リメというフランス人で彼の構想からワールドカップは始まったのである。しかし最初開催するにあたってヨーロッパや南米のビッグクラブはこぞって「そんなワールドカップなんて大会は嫌だ!」「自分(クラブの会長)が身銭を切って雇っている大切な選手が、そんな有象無象な大会で怪我したらどうする!」と反発が強く、(今では考えられないが)協力者が少なかったのである(こういういきさつは21世紀に入った今でも、野球WBCでもアメリカでメジャーが同様のことを言っている。「歴史は繰り返す」である)。
そんな逆風の中でジュール・リメに救いの手を差し伸べたのがウルグアイサッカー協会である。ウルグアイは当時からサッカー熱が高く(今でも小国ながら強豪だ)、国の景気良かった上に第1回大会の1930年がウルグアイの独立100周年という記念の年ということもあってワールドカップの第1回大会が開催できることになった(余談だが第1回大会の費用も当時のウルグアイ政府が負担したという)。そして映えあるワールドカップ第1回大会の優勝国もウルグアイである。
こうした経緯があってワールドカップが成り立ったのだが、次は卓球であるが何故中国はあれだけ卓球が異常なまでに盛んで強いのかと言うと、やはりこちらも強くなったいきさつがあったのである。
中国が卓球の総本山のようになったのも理由は沢山あるが、その1つに政治的な理由も要因としてあった。1950年代に日中戦争後に中国は国民党(台湾)と共産党(北京)に分離した。当時の国際政治では2つのチャイナを認めておらず北京政府(中国)は国際的に孤立しており、あらゆるジャンルでチャイナといえば中華民国(台湾)を支持していたのである。
しかし国際卓球連盟は政治や宗教的理由によって選手(この場合は卓球選手)が競技の出場機会を奪わないし連盟の加盟を妨げないという[オープンドアポリシー]を掲げていて、国際的に孤立していた中国のスポーツ選手の競技の受け皿に卓球は果たしたのである。その中国卓球界は文化大革命で60年代末から70年代初めに一時低迷するも、80年代には復活し現在では卓球の世界ランキングのほとんどが中国人になったのである。
この経緯を見て思い出すのは「人の行く 裏に道あり 花の山」と言う川柳で、もとは相場師の言葉とも言われている。昨今の日本でKYだの空気読めだの周囲の同調圧力を強める言葉ばかりが増えているが、本当に必要なのは自分の意思で社会の意識(空気)を変える気持ちなのかもしれない。
参考文献 サッカーを知的に愉しむ 林信吾・葛岡智恭著 2002年 光文社新書、R25 2008年6月19日号