発明というものは人間社会の在り方を変える。人類の歴史というのは言葉を変えれば発明の歴史なのかもしれない。今回は少しそのことについて書こうと思う。

15世紀にドイツにグーテンブルクという人がいて彼が活版印刷という機械を(少なくともヨーロッパ社会の中では初の)発明をした。それまでのヨーロッパ社会では本は(おそらく)仏教でいう写経のような形でしか存在できず、そのため中世ヨーロッパ社会で聖書を読めるのは聖職者だけで、それゆえ聖職者というのは(あと当時の聖書で書かれていたラテン語が読めるというのは)特権階級のエリートしかできないことであった。

しかしその中で活版印刷という発明によってヨーロッパの一般市民でも聖書が普及するようになり、各地の修道士たちが地元の言語に翻訳していった(おそらく推測だがこれが翻訳の起源なのではと筆者[独眼鉄]は考えている)。

元々ヨーロッパ社会では1077年のカノッサの屈辱でヨーロッパの諸侯よりローマ教皇の方が影響力が強まっていて、宗教界の風刺のような演劇もあり宗教界自体が力を持ち過ぎていた。

そんな中で聖書がヨーロッパ中に普及したことによって何が起こったというと、ヨーロッパ社会の中で(当時の世界では)新しい神学と神学者が多数出現したのである。新しい神学によってマルティン・ルターのような新しいキリスト教(新教・プロテスタント)が生まれて、既存のキリスト教(旧教・カトリック)に対してヨーロッパ社会の中で宗教の勢力地図が変わった。

筆者は別にカトリックを批判する気は毛頭無い(というよりそんな度胸も無い)。何が言いたいのかと言うのは冒頭の言葉のように、歴史を動かすのは実は正義や倫理という要素よりは「発明」の方が重要なファクターなのかもしれないと言うことである。

今このブログもインターネットを介して自分の考えを読者の皆様に伝えているが、筆者が若い頃の90年代末頃はスポーツでも音楽でもゲームでも、ある特定の娯楽に対して自分の考えを不特定多数の人に伝えるにはその娯楽の専門誌の編集部に入るしかなかった。しかし今の時代ネットによって雑誌もそうだが、新聞やテレビといった既存の情報発信媒体の影響力が弱まり「大衆」の時代から「個」の時代に変化していった。

ただ勿論既存の媒体に全く意味が無いとは言わない。個人的に好きなライターも筆者はいるし、この人が書くならと言って本を買うこともある。しかしインターネットでも活版印刷でも社会の在り方(ネットならそれまで大組織ありきの情報発信での雇用が)に変化が必要とされているように見える。活版印刷とインターネットの関係で一つ感じたことである。