去年読んだ「ダメ男が世界チャンピオンをつくった」(渡辺均著・廣済堂出版・2012年)で五反田にある業界大手であるワタナベジムを一代で築いた渡辺会長の自叙伝の本がある。渡辺会長の出身はこの本にもあるように栃木県が出身なのだが、彼自身元々は栃木の国鉄マンだったことをその本で述べていた。そこで一つ興味深いことを言っていたので、それを今回書きたい。

渡辺会長は栃木県で生まれ育ったと言っていたが、彼が高校卒業後に彼の親が斡旋(あっせん)した地元の国鉄(現JR)に就職したという。だが渡辺会長自身この国鉄の仕事が嫌で仕方がなかったという(鉄道マニアに考えられないが)。就職して1週間もしたら辞めたくなったという。そして親に国鉄の仕事を辞めたいことを伝えたそうである。

そんな当時の渡辺青年に彼の親はその言葉をまともに取り合わなかったという。高卒の若者が天下の国鉄を辞めたいなんて一時の気の迷いと捉えられたそうだ。渡辺会長曰く「当時は地方の人間で国鉄に就職することは親にとっては名誉なことこの上ないし、子供(つまり渡辺会長)からすれば最大の親孝行が国鉄に就職することだった」という。

当時の(昭和の頃)の国鉄というのは、まず親方日の丸(懐かしい言葉だ)なので失業の心配がないし仕事も基本的に定時に終わるし(渡辺会長はこの後ボクシング活動をしていた)、当時の時代背景を考えれば渡辺会長の立場と代わって貰いたい人は(色んな意味で)多かったと思う。

結果的に渡辺会長は最後は国鉄を辞してボクシング活動に専念するようになったが、この本にもあったが「嫌々仕事をやっていた(渡辺会長談)」国鉄も渡辺会長が栃木から東京に拠点を移そうとしたら東京勤務にさせようとまでしてくれたという。当時の国鉄はそこまで待遇が良かったらしい。

しかし1980年代の中曽根政権の時に国が官から民へ国策を転換するようになり周知のように国鉄も民営化されて、今書いたようなある意味ファンタジーのような世界の待遇は跡形もなく霧散してしまったのである。

当時の国鉄の待遇の良さや現実社会の「勝ち組」度は何も栃木だけではなく他の地方も同じだったという。姜尚中が彼のお母さんについて書いた本で(「オモニ」、韓国語でお母さんという意味。この本は読んでないので中身は知らないが)リリー・フランキーと姜尚中が対談したチラシがあったが、リリー・フランキーは北九州で姜尚中は熊本と同じ九州で昔の就職について語っていたが、当時北九州では炭鉱で働いる人はより下層の仕事を探して差別する縮図があったらしいが、その一方で九州の地方都市でその就職ヒエラルキーの頂点だったのは学校の先生と国鉄マンだったという。

いつの時代もそうだがそれまでヒエラルキーの頂点だったものがある時突然崩れ去って、最下層のものが新たな頂点になるというのはいつの時代も同じなのかもしれない。そんなことを考えた。