先日筆者(独眼鉄)のブログで韓国の現代政治史のことを書いたのだが、為政者の統治の在り方としての独裁政治について少し思うことがあったので書いてみたい。

人間誰しも(特に男性は)この世の全てを自分の思うがままに操ってみたいと誰しも思うものである。筆者自身も少なからず思わなくはない。しかし現実に考えて独裁者や独裁政治というものは我々一般市民が考えているほど良いものではないらしい。自分の思うがままに操るのもある程度自分がやりたいことができたら飽きてしまうだろうし、また自分の意思で国内のコントロールができている分自分の部下や一般市民からいつ寝首を掻かれるかという不安にも苛まされるから、夜もぐっすり安眠することができない。独裁者だけではないのかもしれないが誰もが羨む立場にいることが幸せではないのかもしれない。

事実先日の筆者のブログで朴正煕大統領が、1961年に李承晩をアメリカに追い出した後1979年まで独裁政治を続けたが、前述のように彼は最終的に軍部の部下に銃殺された(因みに朴正煕政権で独裁者による長期独裁政権の弊害が韓国国内にできた為、韓国の大統領は基本的に1期5年で再任不可になった)。

独裁者という立場が意外に不安定な立場なのは現代政治史が証明している。イラクのフセインもベネズエラのチャベスも最終的に理由のわからない謎の死を遂げたし(チャベスは民衆から支持を得ていた部分もあったので独裁者ではないかもしれないが)、ドミニカのトルヒージョも暗殺されたしリビアのカダフィ大佐もそうだが「アラブの春」を代表されるように、2010年代初頭の中東のジャスミン革命で彼の地の独裁政権は崩壊したし(その後どうやって民主政治を構築するかという問題もあるが)、ルーマニアのチャウセスクも銃殺された映像も筆者は子供の頃見たことがある。

結局、現代政治の独裁者で枕の上で死ぬことができたのはスペインのフランシスコ・フランコと北朝鮮の金日成ファミリーぐらいなのかもしれない(探せばもっといるかもしれないが)。

今まで長々と現代政治と独裁者の関係性をいったが、独裁者ではないが三国志でも張飛が義兄の関羽の弔いの為(中国では喪服の)白装束を部下に無理やり脅迫して準備させようとして、結果張飛はその部下に寝首を掻かれて死んだ。筆者のような凡人で庶民には心配は無用だが人を束ねて統治しようとする時、恐怖や脅迫ではいずれは人民や部下に復讐されるのだろう。柄にもないことだがそれを今回思った。

お知らせ 今このブログを1日おきに書いていますが明後日は書けないかもしれません。またこれから筆者の都合上、ブログのアップが不規則になるかもしれません。予めご了承下さい。錦糸町の独眼鉄