昔のブログのネタ帳から少し興味深いテーマがあったので、今回はそこから考えたい。
二年前(2012年)という年は日中国交正常化40周年(1972年)という東アジアにとって節目の年であったが、その一方で尖閣諸島問題で日中間の国交に対して政治的摩擦の多い一年でもあった。元々2000年代初めから日中間の国交は大なり小なり摩擦は起こっていた。今から10年程前の中国国内のサッカーアジアカップでの中国での政治的な理由からの暴動も(暴動は決して許される行為ではないが)、中国国内の慢性的な雇用状況の悪化に加え(以前にも書いたが)アジアカップの会場で日本代表が試合した街が日中戦争の時に旧日本軍が1938年から1943年までの間に200回以上の空爆をした(国民党の臨時政府があった)重慶という街でやったことで日中関係は悪化したのである。
以前姜尚中の「ニッポン・サバイバル」(集英社新書・2007年)でなぜ日本はODAなどで中国に多額の出資をしているのに彼らは反日を唱えているのかという問いに対して、日本の現代史が参考になると言った。1970年代の日米安保条約の時も当時の日本の大学生(今の団塊の世代)は安保反対を訴えつつも、Tシャツにジーンズを身に付け洋楽を聞きハンバーガーを食べる事が当時の流行だった。本当にアメリカを拒絶するなら日本的な様相にすべきだったがそうではなかった。首から下がアメリカだったが故に首から上は日本でいたかったのである。
現在の日中関係もそうである。筆者(独眼鉄)もONE PIECEの中国版や韓国版を持っているが、アジア各国に行くと日本人が想像出来ないぐらい日本の物が溢れている。中国人の若者は日本の漫画を読み、日本の音楽をダウンロードし、日系のコンビニでおにぎりや日清のカップヌードルを食べて、日本製品のパソコンを使う。彼らも安保時代の日本の大学生同様首から下は日本に浸かっているが故に、首から上は中国でいたいと考えているように思える。
姜尚中も言っていたが中国人が文化的ではない、文明人ではないと言っていたが文明人になるためには日中間の歴史を知ることがエチケットだと言っていた。前述の重慶への爆撃(霧都爆撃)のこともそうだが日本人全体が歴史を知らなければならないような気がする。筆者自身ここ何年か東アジアのみならずアメリカ大陸やヨーロッパのことも勉強してきたが(まだこれからも必要なことだが)、このブログを読んでその一部を発表してきたつもりだが、「中国だから」と思考停止して理解し合うのを放棄するのではなく互いのためになることを国民一人一人が国家間の理解になることを考えなければならないと筆者(独眼鉄)は考える。
二年前(2012年)という年は日中国交正常化40周年(1972年)という東アジアにとって節目の年であったが、その一方で尖閣諸島問題で日中間の国交に対して政治的摩擦の多い一年でもあった。元々2000年代初めから日中間の国交は大なり小なり摩擦は起こっていた。今から10年程前の中国国内のサッカーアジアカップでの中国での政治的な理由からの暴動も(暴動は決して許される行為ではないが)、中国国内の慢性的な雇用状況の悪化に加え(以前にも書いたが)アジアカップの会場で日本代表が試合した街が日中戦争の時に旧日本軍が1938年から1943年までの間に200回以上の空爆をした(国民党の臨時政府があった)重慶という街でやったことで日中関係は悪化したのである。
以前姜尚中の「ニッポン・サバイバル」(集英社新書・2007年)でなぜ日本はODAなどで中国に多額の出資をしているのに彼らは反日を唱えているのかという問いに対して、日本の現代史が参考になると言った。1970年代の日米安保条約の時も当時の日本の大学生(今の団塊の世代)は安保反対を訴えつつも、Tシャツにジーンズを身に付け洋楽を聞きハンバーガーを食べる事が当時の流行だった。本当にアメリカを拒絶するなら日本的な様相にすべきだったがそうではなかった。首から下がアメリカだったが故に首から上は日本でいたかったのである。
現在の日中関係もそうである。筆者(独眼鉄)もONE PIECEの中国版や韓国版を持っているが、アジア各国に行くと日本人が想像出来ないぐらい日本の物が溢れている。中国人の若者は日本の漫画を読み、日本の音楽をダウンロードし、日系のコンビニでおにぎりや日清のカップヌードルを食べて、日本製品のパソコンを使う。彼らも安保時代の日本の大学生同様首から下は日本に浸かっているが故に、首から上は中国でいたいと考えているように思える。
姜尚中も言っていたが中国人が文化的ではない、文明人ではないと言っていたが文明人になるためには日中間の歴史を知ることがエチケットだと言っていた。前述の重慶への爆撃(霧都爆撃)のこともそうだが日本人全体が歴史を知らなければならないような気がする。筆者自身ここ何年か東アジアのみならずアメリカ大陸やヨーロッパのことも勉強してきたが(まだこれからも必要なことだが)、このブログを読んでその一部を発表してきたつもりだが、「中国だから」と思考停止して理解し合うのを放棄するのではなく互いのためになることを国民一人一人が国家間の理解になることを考えなければならないと筆者(独眼鉄)は考える。