筆者(独眼鉄)もこのブログでJ2を中心にサッカーの記事をよく書くが、Jが来期からJ1からJ3までの3部制になって20年前にJ1だけで10チーム(オリジナル10)でスタートしたJリーグは今はJ1J2の上2つのリーグだけでも40チームまで増加した。これだけのチームが(単純計算して30チームが)Jのカテゴリーに入ったことは、それぞれのクラブにJFL時代の試行錯誤(七転八倒?)のJを名乗る為の産みの苦しみの時代があったのだろう。それを今回は少し考えたい。

以前J2の栃木SCのことを調べていた時に栃木SCがJFLでJ昇格を目指していた頃、栃木SCの選手達がこんなことを言っていた。「都田のジンクスって聞いたことあるか?」「Jに行くチームは必ず都田でHondaに勝ってるってやつだろう」「ロッソは去年、都田で勝てなくてJに行けなかったんだよな……」(カギカッコは参考文献のママ) 、とあったが都田(みやこだ)と言うのはHonda FCの本拠地がある静岡県浜松市にある都田サッカー場のことである。HondaはJ創世記の時に他の企業クラブがどんどんプロ化していくなかで、自分たちはアマチュアリズムを貫くとしてJFLを主戦場にして、選手達も皆サッカーの他に仕事を持ってプレーするアマチュアクラブで、地域リーグからJリーグ入りを目指すクラブからは「Jへの門番」という、ある意味「史上最強のアマチュアクラブ」のようなクラブであり、事実この栃木SCの選手が言うようにその前の年(2006年)はロッソ熊本(現ロアッソ熊本)は敵地浜松の都田で敗れてJ2昇格を阻止された歴史がある(この会話をしていた2007年の栃木SCも、この年は昇格出来なかった)。

J昇格にとってゲンの悪いスタジアムがあれば、その逆もある。周知の通り東日本大震災があった2011年シーズンはサッカーのみならず全てのプロスポーツで変則的なシーズン予定を余儀なくされた。
2011年のJFLも同様で町田ゼルビアは変則的な日程で戦っていて、前節ホームの町田でアルテ高崎に逆転負けを喫していたが、その次の節で同じアルテ高崎と今度はアウェイで対戦することになったのである。その時町田ゼルビアはJFL4位以内の当確線上にあって、非常にナーバスな時期であった。そのアルテ高崎の本拠地の浜川競技場は過去にFC岐阜(2007年)やギラヴァンツ北九州(2009年)がこの競技場で昇格を決めているJクラブ入りを目指すクラブとしてはゲンのいいスタジアムで、他にも前述の栃木SC(2008年)やガイナーレ鳥取(2010年)もアルテ高崎相手がJ昇格を決めた相手であった。この試合での町田ゼルビアも昇格を前に動きが堅かったものの後半終了間際の88分に先制ゴールを決めてJ2昇格を決めたのである。しかしこの時の相手のアルテ高崎というクラブはもうJFLを退会して今はもう存在しない。

こうやって見てくるとどんなクラブにもクラブの歴史があり、ある意味「地域リーグの聖地」というようなアマチュアサッカーの世界にも独特の濃厚な歴史の重みのようなものを感じる。今Jリーグが20年の歴史を持つが、そこに行き着くまでに多くの闘いがあったのを感じた。

参考文献 栃木SC Jへの軌跡 大塚順一 CRT栃木放送発行 2009年

FC町田ゼルビアの美学 佐藤拓也 出版芸術社 2012年