昨日に引き続き今日も雇用がテーマである。以前2013年7月3日のブログで「アメリカのビジネスマンとブラジルのサッカー監督」というテーマで記事を書いたが、どちらの世界も雇用(首切り)にはドラスティックな代わりに再チャレンジのチャンスはあるということを書いたが、アメリカやブラジルに限らず雇用に対してドラスティックな国というのは得てして再チャレンジの機会も(当然条件は劣るが)寛容になっているように思える。このアメリカやブラジルの例だけではないが、人間社会というのはしっかりとしたセーフティネットがあって初めて人間は大胆な行動に移せるというものである。しかし現代の日本社会は「プロに問われるのは結果のみ」となって結果至上主義がセーフティネットを壊して、成功して当たり前で失敗したらそこで終わりチャンスなんて二度と無い。そういう風な世の中になったら若者は当然夢なんか追いかけなくなる。しかし人間は失敗があって普通であり失敗に対してのセーフティネットがないとどんどん失敗しないように消極的になっていき、それが閉塞感に繋がって行くのである。以前何かのネットの記事でiPS細胞の山中伸弥教授が「失敗を恐れずに失敗から学んで貰いたい。」というようなことをいっていたが、失敗に対して(そりゃ誰だって失敗は嫌であるし、筆者[不器用貧乏]も失敗はいっぱいあったが嫌なものだが)セーフティネットがあって、失敗から反省を見いだして初めて成功が生まれてくるのである。以前香港映画のジョン・ウー監督の「男たちの挽歌」で更正しようとした香港人の元ギャングが「過ちを犯した人間にもう一度チャンスを与えることはできないのか?」というシーンがあったが、今の日本社会は犯罪でなくても一度失敗したら徹底的にその人間を落とす、という他人の心を推し量る余裕が持てなくなり(自分含めて)日本社会が狭量になっていっている。自分にも他人にも狭量になるので閉塞感ができるのである。野村克也監督の「真のプロフェッショナルはプロセスのプロだ。」というが現代社会、プロセスの重要性を説くと「ダサい」「逃げ」と捉えがちだが、失敗に対してセーフティネットがあって失敗から学びとり、再チャレンジの機会があって初めて人間は大胆な行動に移せるのである。成功しか見えない視野狭窄になって、失敗に対して狭量になってセーフティネットを潰しては社会に残るのは閉塞感のみである。日本社会はプロセスの重要性を意識し、もっと色々な事に寛容にならないといけない。