このブログのだんだん主たるテーマの1つになってきた雇用のことをまた書こうと思う。以前読んだ本でもあったが第二次大戦後のイギリスで炭鉱で働く炭鉱夫にとって炭鉱で働くことはこの上ない誇りであった。炭鉱で危険な落盤や誤爆と戦いながら石炭を掘るというのは、強靭な肉体と精神がある証明であった。しかし後に石油や電力のような代替エネルギーが生まれ、石炭自体の値段の低迷により、サッチャー政権の時にイギリス政府は炭鉱の閉山に踏み切った。閉山の決定は炭鉱夫にとって耐え難い屈辱であった。そこから閉山後のコミュニティの消滅に繋がり、炭鉱夫のアイデンティティーも霧散してしまった。
一方、以前NHKスペイン語講座でスペイン語圏の映画を紹介していた時、スペインか南米かは忘れたがあるスペイン語圏の国で、電車の車輛工場で働く人々がいて、彼らも又その車輛工場で働くことを誇りに思っていた。しかし政府の合理化の方針で車輛工場の廃止が決定し、そこで働く人々が誇り高い仕事から生活に行き詰まり日雇い労働者になって、日々の食費にすら困るほど没落していった。
これらを見てイギリスでも南米でも労働によってその人の能力のキャパシティーをあげて自分の存在意義を確認するという意味では同じである。しかし現代の政府では政府の役割を小さくして、官から民に委託できるところは民に任せるというやり方が主流である。勿論そのやり方の全てが悪いという訳ではないし、国の負担を減らすのも重要なものである。しかしどこの国(あるいは企業)でもそうだが、仕事から得られるアイデンティティーを潰すことによって、国庫の財政は潤うかもしれないが国民の尊厳を奪っては本末転倒のような気がする。国家も企業も国民も利益ばかり追うのではなく働く人の尊厳をもう少し考えるべきである。

参考文献 ケルトを旅する52章 永田喜文著 明石書店 2012年