以前2013年6月20日にも同じタイトルでブログを書いたが、このテーマでまた書きたいことがあったので書こうと思う。
以前「傭兵の二千年史」(講談社現代新書 2002年 菊池良生著)という本のなかでヨーロッパ社会の傭兵(ようへい=金で雇われた兵士)の成り立ちがあった。14世紀のヨーロッパでペストが猛威を振るい、農村人口が激減し農村からの収入に頼っていた騎士階級が没落した。そして同時期山国のスイスではスイスの農業は、一言で言って女子供や老人だけでなんとかなる農業なので、若いスイス人成人男子の働き口がなかった。騎士階級の没落による新たな兵士の需要とスイス人男性の仕事への供給という、需要と供給の関係が一致し一時スイスは「血の輸出」と呼ばれる傭兵立国になった(スイスの国内産業が傭兵から時計のような精密機械工業に転換するのも同著にある)。この本を読んでも昔のヨーロッパ社会でも雇用という問題は重要な問題のようだった(筆者は戦争を賛美する気は全くない。それと雇用の問題で戦争に頼らなくてはいけないというのは悲しい気もした)。
雇用の問題が昔のヨーロッパだけでなく現代のアジアでも重要なことである。「ローカルボクサーと貧困世界」(石岡丈昇著 世界思想社 2012年)という本でフィリピンのボクシングジムで住み込みでボクサーの活動から貧困問題を考えるという本であったが、フィリピン人のボクシングジムオーナーが他のボクシング関係者と雑談している横に、若いボクサーが隣に座り黙って何もしないのである。オーナーも何も話しかけない。この光景を不思議に思った著者が「あの若いボクサーは何をしたいの?」というと、先輩ボクサーが「あの若いボクサーの従兄弟がマニラに上京してきたが仕事の口がないから、オーナーがジムとは別に所有しているレストランでウェイターか皿洗いの仕事を斡旋して貰いたいんだ。ただオーナーのレストランも人員整理したいらしいから斡旋して貰えるかな。」と言っていた。この無言のやりとりを見て、現代のアジアでも雇用の問題は重要なように感じた。
これらの本を読んで古今東西いつの世の中も、雇用というのが人間社会(特に男性)において重要な問題であるように思える。現在の日本社会でも雇用の問題と個人個人が向き合うべきである。
以前「傭兵の二千年史」(講談社現代新書 2002年 菊池良生著)という本のなかでヨーロッパ社会の傭兵(ようへい=金で雇われた兵士)の成り立ちがあった。14世紀のヨーロッパでペストが猛威を振るい、農村人口が激減し農村からの収入に頼っていた騎士階級が没落した。そして同時期山国のスイスではスイスの農業は、一言で言って女子供や老人だけでなんとかなる農業なので、若いスイス人成人男子の働き口がなかった。騎士階級の没落による新たな兵士の需要とスイス人男性の仕事への供給という、需要と供給の関係が一致し一時スイスは「血の輸出」と呼ばれる傭兵立国になった(スイスの国内産業が傭兵から時計のような精密機械工業に転換するのも同著にある)。この本を読んでも昔のヨーロッパ社会でも雇用という問題は重要な問題のようだった(筆者は戦争を賛美する気は全くない。それと雇用の問題で戦争に頼らなくてはいけないというのは悲しい気もした)。
雇用の問題が昔のヨーロッパだけでなく現代のアジアでも重要なことである。「ローカルボクサーと貧困世界」(石岡丈昇著 世界思想社 2012年)という本でフィリピンのボクシングジムで住み込みでボクサーの活動から貧困問題を考えるという本であったが、フィリピン人のボクシングジムオーナーが他のボクシング関係者と雑談している横に、若いボクサーが隣に座り黙って何もしないのである。オーナーも何も話しかけない。この光景を不思議に思った著者が「あの若いボクサーは何をしたいの?」というと、先輩ボクサーが「あの若いボクサーの従兄弟がマニラに上京してきたが仕事の口がないから、オーナーがジムとは別に所有しているレストランでウェイターか皿洗いの仕事を斡旋して貰いたいんだ。ただオーナーのレストランも人員整理したいらしいから斡旋して貰えるかな。」と言っていた。この無言のやりとりを見て、現代のアジアでも雇用の問題は重要なように感じた。
これらの本を読んで古今東西いつの世の中も、雇用というのが人間社会(特に男性)において重要な問題であるように思える。現在の日本社会でも雇用の問題と個人個人が向き合うべきである。