先日、ジーコジャパンの頃の日本サッカー協会(JFA)の人で平田竹男氏の『サッカーという名の戦争』(新潮社、2009年)を読んだ。20年前の1993年10月28日のドーハの悲劇の時も、1997年11月16日のジョホールバルの歓喜の時も、W杯アジア地区予選では共に3位で順位そのものは変わらなかったという(筆者はこの事実を知って愕然とした)。W杯アメリカ大会では出場国は24ヶ国でアジア枠は2であって、オフトジャパンの時は3位で行けなかったのに対し、フランス大会の時は出場国は32ヶ国でプレーオフ第3代表決定戦でW杯初出場を果たしたのである。この事実で勝利の女神は気まぐれで時に残酷だと痛感した。 元々「ドーハの悲劇」というが、そもそもドーハというカタールの都市で日本や韓国、北朝鮮といった東アジア勢とイラク、イラン、サウジアラビアのような中東勢が一ヶ所に集まり中東の一つの町で1993年10月15日~28日という2週間で5試合という短期決戦でやると言う、客観的に見てもアメリカ大会の時のアジア予選は、中東勢有利で東アジア勢には不利な予選の仕組みであった。
こうやって見ると日本代表と言うのはアメリカ大会の時はアジアの中でも相当強くて歴史にたらればは禁物だが、W杯本選でも戦えたのかな、と脳裏をよぎってしまう。
じゃあ順位は同じでも日本サッカーの中身には変化がなかったのかと言うととんでもない。アメリカ大会の時の日本代表はW杯こそ逃したものの、Jリーグの成功でアジアサッカー界の存在感の向上に多大な貢献と影響力を与え、フランス大会の代表は後の日本代表がW杯常連国になる礎を築いてくれた。ただこの本を読んでアメリカ大会の時は、当時のJFAにはアジア地区で自国(日本)が有利な条件に交渉する政治力、外交力が欠けていたのだろう。
しかしアトランタ五輪の時のマイアミの奇跡や90年代の日本代表のW杯悲願の初出場のための血の滲むような努力、ドーハの悲劇の後にJFAがフランス大会の時は中東にイニシアチブを取られないようにするための外交力の強化(本来フランス大会予選の第3代表決定戦も中東でやる可能性もあったが、中立国のマレーシアのジョホールバルにするように日本が交渉したのである。日本代表の涙ぐましい闘いの裏にも、関係者によるもうひとつの闘いもあった)がありドーハとジョホールバルの間の4年間は日本代表の選手という表方も、関係者という裏方も真のアジアのサッカー大国になるための「脱皮」のような4年間だったのかもしれない。 先日日本代表が2014年W杯の出場権をホスト国のブラジルを除いて一番乗りで獲得した。自分は本田も長友も香川も尊敬するし好きだが、今日本代表はW杯に出られて当たり前のような風潮だが、我々日本国民はW杯アメリカ大会やフランス大会で尽力した選手や関係者の努力も知らなけばならないと思った。
参考資料 雑誌Number824・825合併号 2013 文藝春秋