こんばんは~。

 

今日は高校生の女の子の恋愛相談から感じたことです。

 

 

 

その子は高校三年生。たしか一年生の頃から付き合っている彼氏がいます。

 

半年ほど前、一度、お別れしていました。彼にふられる形で。

 

理由は「ほかの女の子とも遊びたい」という理由でした。

 

でも、なんやかんやでしばらくして、彼は戻ってきたらしく。

 

また嬉しそうに付き合っていたのだけど、もともと彼女の束縛が激しかったのに、さらに一度別れたことにより、彼女の束縛がキツくなり

 

聞いていると、位置情報のアプリで彼の居場所をつねに見張っていたり

 

彼が見せてくれていた…というのもあるらしいのですが、彼のTwitterやインスタにログインして

 

すべてのメッセージのやりとりを把握していたらしい。

 

 

もう、これ聞く時点で、あちゃ~あせるって感じなんだけど。

 

きっと彼も、愛の証明のつもりで、彼女の嫉妬をそこまで受け入れていたのかもしれない…一時的には。

 

でも、次第に窮屈になるよね?

 

で、どうもあたらしい女の子との出会いがあったっぽく、彼はこれまで彼女に見せていたLSNS類を見せてくれなくなって、ロックをかけたらしい。

 

それに不満を伝えた彼女を、彼は逆ギレして、お別れ…

 

という流れらしいのですが

 

 

 

 

わたしの読者さんは、大人の女性が多いから、こんなおままごとみたいな恋愛・パートナーシップは築いていないとは…思う。

 

誰が見ても、こんな関係つづくわけがない…ことはわかると思う。

 

 

だけど、どうだろう?

 

この高校生の彼女が陥った心境みたいなものに、似た心境を感じたことがある人は…いると思う。

 

 

 

どうしてここまで束縛してしまうのだろう?

 

どうしてここまで執着してしまうのだろう?

 

 

 

彼女の欲しいのは、「安心感」なのだと思う。

 

 

彼のことを信じたくて、愛されていることを感じたくて

 

その証拠をつねにつねに集め続けたいがために、ここまでの束縛をしてしまっていたのだと思う。

 

 

でもね、ものすごく一方通行な愛情だということも、わかりますよね。

 

 

彼女から彼に届いているメッセージは

 

「愛してよ。」「もっともっと。」「ちょうだいよ。」「もっともっと。」

 

 

彼も彼女にあげたかったのだと思う。

 

だからよりを戻したときに、SNSのすべてを見ることを許可してみたのだと思う。

 

 

彼は応えた。

 

彼女に応えた。

 

 

なのに、彼女の「もっともっと。」は底なしに見えたのだと思う。

 

あげてもあげても彼女の安心感は生まれなかった。

 

 

それはなぜか?

 

 

彼女には主体性がとても欠けていたから。

 

彼女は彼のことを大好きだったと思う。

 

いっぱいの愛情を持っていたのだと思う。

 

 

でも、その大好きという気持ちを主体的には使っていなかったのだと思う。

 

 

「主体的」というのは

 

自分はこうしたい、こうありたい、こうなりたい、という自分軸のこと。

 

 

彼女のお付き合いのしかたは、彼がどうしたか?に対する反応だったのだと思う。

 

反応は後手にまわりやすい。

 

コミュニケーションなのだから、反応ももちろんあっていいのだけど、防戦一方だと主体性が発揮できなくなる。

 

 

彼と仲良く過ごしたい

 

という強い主体性があったときに

 

じゃ、仲良く過ごせないのなら、デートの最中でも今日は帰る!と言えるくらいの。

 

 

こんな感情を感じたい

 

という強い主体性があったのなら

 

じゃ、そんな感情をぜんぜん感じられないのなら、怒らせるかもしれなくても要望を彼に伝える!という勇気を出せるくらいの。

 

 

わたしはこういう女性でいたい

 

という強い主体性があったときに

 

こんな女性でいられないのなら、彼と別れる!という決断をできるくらいの。

 

 

これはサヌキ(男性性)の使い方なんだよね。

 

 

 

そこがなかったからだと思う。

 

 

 

どんなに好きな彼でも

 

もう、こんなすてきな人には二度と会えないかもと思えるような相手でも

 

自分の人生において、自分以外の存在は二の次でなくてはいけないと思う。

 

 

それは恋愛だけでなくって

 

子どもも、お金も、仕事も、ぜんぶ。

 

 

自分の人生において

 

自分以外のものはツールなんだと

 

わたしがわたしを幸せにするためのツールなんだと言い切れるくらいの

 

そんな主体性がもてたとき

 

初めて、ちゃんとそれらと向き合えるのだと思う。

 

 

 

 

 

ツールに振り回されては、被害者から抜けられない。

 

 

本当に彼に傷つけ「られた」のか?

 

本当に子どもに邪魔「された」のか?

 

本当にお金に見放「された」のか?

 

本当に仕事の「せい」なのか?

 

 

ううん、違うと思う。

 

 

それを選んだのも選び続けていたのも、自分だ。

 

そして、その現実をそう受け取ったのも自分だ。

 

 

ひとときの「安心感」がほしいがために

 

自分を売ったのは、自分なんだよね。

 

 

自分を大切にするっていうのは

 

物理的に、ゆっくりする、とか、丁寧に扱うとか、そういうのもあるのだけど

 

全部を決めているのは自分だという意識をもつことだと思う。

 

 

 

主体的に生きるとは

 

なににも頼らない、とかそういうさみしいものではなくって

 

自分の世界を自分でコツコツ創っていく地道な選択の積み重ねなのだと思う。

 

 

本当にコツコツ。

 

 

女性はどうしても受容する生き物であるからこそ

 

そこはほうっておいてもよくって

 

なにを受容するのか

 

なにを自分の世界に入れ込むのか

 

心地いいもの、心地わるいものをしっかり選別して

 

受け入れがたいものにはしっかりNOを言い

 

そうして築いた自分ワールドこそ、「安心感」そのもの。

 

 

欲しくてほしくてたまらなかった安心感は

 

人からもらえるものではなく

 

自分で創っていく世界でこそ得られる感覚なんだと思う。

 

その自分ワールドの中でこそ

 

本来のアワ(女性性)はくつろげる。

 

安心してすべて受け入れていく。許していく。溶かしていく。

 

 

 

彼女はまだアワもサヌキも未熟。

 

こんな経験をして、こんなのは嫌だーーーーー!!って心底思えるようになってから

 

サヌキが成熟してくるのだと思う。

 

 

わたしもそうだ。

 

なんどもなんども、こんな自分は嫌だーーーーー!!って

 

ズタズタになって気づいてきたなぁ。

 

 

どんどんいこう。

 

どんどんいい女になるドキドキ