昨日の父の存在感についての続きを書きたいと思います。
タイトルにもあるように
ナニカが削がれると
ナニカが研ぎ澄まされるのだと思います。
実際、父は肉体を失いましたが
その存在感は増しています。
肉体がないので、これまで使えていたコミュニケーションは削がれてしまいました。
会うこと、話すこと、電話などなど
できなくなりました。
その分、感じるという部分が研ぎ澄まされたんですよね。
目が見えない人が
見える人より他の感覚が研ぎ澄まされていたりすることは、よくあることです。
会えないと
会えない分、感じられる。
会えていた時よりも、感じられるようになるんですね。
きっと目の前の現実すべてがそうなんだと思うんです。
目の前にあるものに意識が向いている時
そこにとらわれるあまり
感じるということが削がれてしまうのだと思います。
目の前にナニカ事象が起きている時って
そのことを目で追うことに一生懸命だし
そのことにたいおうすることで手一杯だし
そのことを味わう余裕なんてなかったりする。
おしゃべりもそうだ。
話すことに夢中になってたら
何食べていても味がわからなかったり、とか。
車の運転をしていたら
交通事故を起こさないようにと注意を払っているから
周りの景色を味わう余裕がなかったりだとか。
けど、わたしは結構、運転中は〜瞑想状態になるな 笑
ずっと携帯からの情報を追い続けていたら
日が傾いていることにも気づけなかったりだとか
目の前にあるという恩恵は
実はその時は感じにくくなってるのだと思う。
じれったいなぁ、このしくみ。
だから、わたしは意識的に感じる時間を持つようにしている。
暇さえあれば、ぼぉっとゴロゴロすること
ヨガをしながら身体を感じる時間。
そんな時に
いろいろ解ける。
いろんなことがわかる。
ふと、気づくのです。
わたしはそんな時間がないと落ち着かないし
なんだか自分と離れ離れ感が強まって不安になってくるのです。
だから、ゆっくりのんびり自分を感じる時間は必須です。