父のことがあって、滞っていたのですが 以前このブログで書いたあとの続きを書きたいと思います。


 

 

わたしが今の自由な結婚観をもっている背景に

 

所有という感覚について、過去に考えたことがあったのも大きいなって思っています。

 

 

とくにこれまでの世の中の価値観において

 

所有することって、すごく価値がある感じがありましたよね?

 

それがステイタスであり、わかりやすく豊かである証拠みたいな。

 

家を持つ、車を持つ、高級バッグを持つ、高額なペットを飼ってる、などなど。

 

 

外側から見て、たくさん所有している人ほど、豊かな人って思えて

自分もたくさん持ちたいって思わされてきた。

 

 

テレビのCMでは、そんな所有したい欲をあおられる映像が毎日流れ

 

ああ、こんな車に乗ったらこんな風にいい感じで生きられるんだ

 

とか

 

ああ、こんな家に住んだらこんな風に幸せそうに生きられるんだ

 

とか

 

ああ、こんな食べ物を食べたらすっごいいい気分なんだろうな

 

とか

 

思わされて、ある意味、煽られてきたのです。

 

 

 

けど、実際のところ、車を買ったって、家を買ったって

物にはわたしたちを幸せにする力なんてなかったんです。

 

幸せを感じる心がなかったら、どんなに物に囲まれても幸せにはなれない。

 

 

 

それと同じで

 

恋人がいたら幸せになれる

結婚したら幸せになれる

子どもが生まれたら幸せになれる

 

みたいな価値観も根強くあって

 

それらは全部、「所有したら幸せになれる」という幻想だったような気がしています。

 

 

 

なぜなら、所有したとたん

 

失う恐怖をゲットしちゃうからなんですよね。

 

 

恋人ができたとたん、彼からフラれる恐怖と共にいることになります。

 

結婚したら、離婚しないようにという恐怖と共にいることになります。

 

子どもが生まれたら、彼らを健康に「ちゃんと」育てないとという恐怖と共にいることになります。

 

 

 

これって苦しい。

 

幸せをゲットしたはずなのに、ものすごい恐怖もゲットしちゃったんです。

 

 

 

で、さらに、所有した感覚って、実は幻想じゃない?って気づいたんですよね。

 

 

だってお付き合いしているからって、彼はわたしのものではない。

 

結婚したからって、夫はわたしのものではない。

 

子どもたちだってそうだ。

 

 

だって、全然思い通りにならないし!(笑)

 

 

 

わたしたちの中にどうしてもある所有の感覚

 

つまり、「わたしの彼」「わたしの旦那」「わたしの子ども」…という感覚が、苦しみの根源なんだなって

気づいていったんですよね。

 

 

 

例に出していうと、

他国の子どもたちが戦争で虐殺されたニュースを見たとしても、「うわ~。かわいそすぎる…」とは一瞬思うけど

あまり、一日中そのことに感じて涙したり、心配したりしない。

 

でも、自分の子どもが38度のお熱を出してしまったら、一日中心配しちゃう。

 

他国は遠くて、自分の子どもは近いからなんですよね。

事の重大性とは関係なく、わたしたちは自分に近いものにほど感情が大きく動くようになっているから。

 

 

他国が言い過ぎなら

 

じゃ、いつも会うお隣さんの子どもちゃんがお熱のときと

自分の子どもがお熱のときの感じ方が違うのは、わかりますよね。

 

同じ子どもがお熱を出しているのに、感じ方が違う。

 

喜びも同じで

 

自分の子どもが絵の展覧会で特賞を取ったー!とかいうと、めちゃ嬉しい。

お隣の子どもちゃんが特賞を取ったときより、確実に嬉しい。

 

日々関わっているから?

それももちろん、あると思うけど。

 

自分の子ども、だからなんじゃないかな~っていう部分もあると思うの。

 

賞を取ったのは、自分のDNAを引き継いだとはいえ、別の個体なんだけど

なんとなく自分に属している個体がって感覚は、あると思うの。

 

だから自分が賞を取ったかのような、錯覚?をしてしまう。

 

 

この感覚が、よくないって言いたいのではなくってね

 

この感覚が強ければ強いほど、喜びも大きくなる。

 

それは素敵なことなのかもしれない。

 

けど、苦しみも確実に増やしちゃうって

 

わたしは気づいちゃったのよね。

 

 

だって、所有しているものは限られている。

 

そして、所有できていないものは、外の世界に無限にあるでしょう。

 

 

子どもちゃんの特賞を例で書くと

 

自分の子どもはいつまでたっても賞を取れないのに

Aちゃんは去年取った、Bちゃんは今年取った…ってなると

なんでうちの子はダメなんだ~って苦しみを生んだりする。

 

 

けど、ここに

自分の子も、AちゃんもBちゃんも、みんな同じ…までいかなくても

どの子もみんな可愛い、とか

地域の子はみんなわたしの子♡くらいの感覚があったとしたら

Aちゃんが賞を取っても、Bちゃんが賞を取っても、うちの子が賞を取っても、どれも喜べるやんって思ったの。

 

もちろん、理想論。

 

なかなかそこまで感覚がフラットにいかないのが人間だもの。

 

それはわかってる。

 

 

でも、わたしはそうなれたらいいなドキドキって思った。

 

近づきたいなって思ってる。

 

※だって理想よー。わたしも全然そこに至ってない(笑) 彼の既読スルーに凹むとかのレベル…てへぺろ(笑)

 

 

それは子どもだけでなく、夫や親や近しい友人のことも

 

もっと言うと、地域も超えて

国も超えて

地球すべての生きとし生けるものすべてを

 

誰のものでもない

 

みんなのもの

 

みたいな感覚を持てたら、すてきだなぁって思ったの。

 

 

 

きっと平和な世の中になるよね?

 

奪い合う必要がなくなるよね?

 

 

とくにこの感覚って、女性は得意だと思うの。(正確には女性性だと思います。だから男性の中にもある!)

 

ずっと太古の昔から、コミュニティを築いて、分かち合ってきた性だから。

 

自分の身体を赤ちゃんに一時期分けて、お乳を分かち合ってきた性だから。

 

分かち合うことの素晴らしさを、女性性(アワ)は知ってる。

 

 

 

 

 

 

そして世の中も、所有がステイタスだった時代から、今、シェアの時代に移ってきているのを感じます。

 

やっぱり、所有だけに価値をおいてきたことの苦しさにみんな気づいているのかなぁって。

 

シェアハウス

カーシェア

メチャカリ(服のレンタル)、ラクサス(高級バッグのレンタル)

メルカリとか、ジモティーとか(他あまり知らなくってごめんなさい)…こういうのも、シェアになると思う。

 

 

良いものを、みんなで分かち合う時代になってきているのかなぁってこと。

 

 

お仕事もそうですよね。

 

一昔前は、ひとつの会社に入ったら、そこで終身雇用されることが多かったり、それが素晴らしいことという価値観があったりしたけど

 

副業も普通。

 

例えばわたしみたいに、パン屋もするし(年明け再開するね♪)、セッションもするし、講座もするし、遊び企画もするし、ファッションコンサルもするし、宿泊もうけいれますよ~、みたいな、え???何屋さん???(笑)みたいな

 

肩書きがない人たちがたくさんいる。

 

 

なら、パートナーシップに関してだって、もう、いまや、一人に対して一人っていうのは、苦しくなってる。

 

ずっと一人の人とって無理になってきている。

 

上のリンク先にあるように

 

 

 

自分のニーズに合わせて、シチュエーションごとに最適なパートナーを選んだっていいのです。

 

この言葉に楽ちんになれる人ってたくさんいるはず。

 

 

 

えーーーーー!!!

 

そんなことしていいのーーーーーーー???

 

 

 

でも…

 

もし…

 

 

 

そんなことしてもいいのだとしたら?ドキドキ

 

誰にも怒られないとしたら?(笑)

 

 

みんな、したくなーーい?ドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキ

 

 

 

だって、楽になること=幸せ じゃない?

 

みんなが楽になること=平和 じゃない?

 

 

 

わたしはそう思っているのです。

 

 

だから、枠を壊したい。