長男が一週間の体験入店から帰ってきました。



 

夏の旅行でお世話になった、山口県のお店。

 

夫の弟、つまり長男からしたらおじさんのいるお店です。

 

そこから「来てくれないか」と言われていたのですが

 

やっと京都のお店から実家という温かい場所に戻ってきたところでしたので

 

もう少し実家という守られた場所でゆっくりしたい気持ちや

 

車の免許などを取っておきたい気持ちなどがあり

 

半年は家にいる…そう決めていたんですよね。

 

 

けど、この飲食店にとっては繁盛期である12月に


一週間でいいから休みを取って手伝いにきてくれないか?と言っていただいて

 

今こちらでしているアルバイトのお休みをもらって行ってきたんですよね。

 

 

行った日の当日だったかな?次の日だったかな?

 

夜電話があり、「もうぜんぜん帰りたくないねんけど…ドキドキ」と

 

嬉しそうに電話がありました。

 

 

とてもよくしていただいてるみたいで

 

美味しいものをたくさん食べさせてもらったり

 

新しい靴や下着を買っていただいたり

 

いろんな仕事をさせてもらったりしているようで

 

嬉しそうに話してくれました。

 

 

 

その会話のときに、冗談で、なんですけど

 

長男はこんなことを言ったんです。(それはわたしとの会話中でなく、次男との会話中でした。スピーカー通話していたので、聞こえていました)

 


「こっちは今日、ふぐ食べたで。てっさやで、てっさ~♪ めっちゃ旨かったで♪

 

 そっちの晩御飯、なんやったんや?

 

 じゃがいもとキムチ炒めたやつか?ひじきか?」

 

こんな会話。

 

 

わたし、これ聞いたとき、ちっくーんと胸が痛んだんですよね。

 

なぜかというと、じゃがいもとキムチの炒めたものってね

 

貧乏時代によく作っていたおかずなんですが(酸っぱくなったキムチと豚バラとじゃがいもを炒めるもの)

 

京都から帰ってきた長男が開口一番

 

「おかあのあれ食べたいねん、じゃがいもとキムチ炒めたやつ」って言ってくれたんですよ。

 

 

それを、冗談とはいえ、バカにする会話に使っているってことに。

 

 

でもね

 

冗談だとわかっていたので、あまり気にしないようにしてたんです。


深い意味はないのだと。


わたしやこの家のことをバカにしたわけではないのだと。


 

 

けども、次の日になっても、なんどもなんども思い出しては悲しくなってたんです。

 

 

ありゃ?思っているより、これ根深いなぁってね。

 

 

忘れようと思っても無理だし

 

じゃ、悲しいままでいようと思っていても、案外しつこいし

 

けど、たまたま夕方に、夫と犬の散歩に行ける機会があったので

 

そこでぜんぶ夫に聞いてもらうことにしました。

 

 

話しながら、涙があとからあとから溢れるんです。

 

泣きながら、ほんとこれ、なんだー?って思いながら。

 

 

夫はとても長男の気持ちに理解を示し

 

若いっていうのはそんなもんだし


嬉しくて気が大きくなってるだけなのだし

 

夢を叶える喜びが大きくて


そうなってるだけだと。

 

それより、そうやって夢が叶っていくというのは素晴らしいことだし

 

喜ばしいことだし

 

そうやって、たくさんいい思いを人からもらって大きな人間になって

 

今度はその喜びを人に回してあげれるようになったらええんや

 

というようなことを話してました。

 

 

それ、聴きながら

 

もちろんぜんぶ、その通りだと思いました。


そうなんよ、その通り。

 

わたしだって、息子が夢を叶えていく姿はとてもうれしい。

 

そして幸せになっていく姿もとてもうれしい。

 

 

けれども、そこじゃないんよ、と。


それとは別個に、なぜこんなに泣けるのだ?と。



わからなかった。


うまく自分の涙に説明がつかなかった。



 

でもね、泣けたことで、やっとスッキリしてきました。

 

 

答えはでなかったのだけど

 

なんとはなしに思ったのは

 

母親とはこういうものなんじゃないのかな?ってこと。

 


母親とは大地みたいなもの。


父親とは太陽みたいなもので。


なにか子どもの成長に目立つことをしてあげていたというより


彼らが育つ下で


見えないところで


整えていたような存在。


大地みたいに


当たり前にそこにあり


見えないものを循環させていた働き。



そんな長男が


もっと大きくなれる大地を見つけて出て行くことに


もう、その働きをさせてもらえないから


つまりは引っこ抜かれていく痛みなのかも、と感じた。



太陽はもともと接していない分


離れる時も痛みは伴わない。


離れるといっても


どこに行っても照らせる存在。



けど母親は


肉体的にお乳をあげたりだとか


日常がとても近しい存在であったからこそ

 

喜ばしい子離れにも痛みが少し伴うのかも、と。




最近よく思い出すのは

 

わたしが結婚を決めて、家を出ていく朝

 

わたしの母もなぜか泣いていたこと。

 

その頃、わたしわからなくて

 

「なんでおかあさん、泣いてるんだろう?」って思ってたことを覚えています。

 

 

わたしが幸せな出発をする朝に

 

なんで泣いてるんだろう?って

 

本当に思ってた。

 

 

でも、今ならわかる。

 

 

言葉にはできないけど、その涙の感じはとてもわかる。

 

 

離れるのがさみしいとか

 

そういう単純な涙じゃないんです。



もう


外で栄養を取っていくということは


じゃがいもとキムチの炒めものは必要ないということ。


その寂しさ


痛みなんだね。


 

 

嬉しいのに


喜ばしいのに


あとからあとから

 

流れてくる涙があるんです。




あとね、わたしは若い頃からあちこち飛び回る子でしたから


そんな時両親はどれだけわたしのこと心配していただろう、とかね


逆を言うとね


わたしはそのころ前しか見ていなくて


出ていくことしか考えられなくて


不安もなかったし


ただただ希望に満ちていたし


だからこそ、長男の感じもすごーくわかる。



どちらもわかることの豊かさ。




今度のは一時的なものでなく


長くなりそうな予感があるから。


それってつまりは


長男は本当に自立していくってことだから


なんか


いっちょ上り!!


って言葉が浮かんだんだよねぇ。



これって本当に親として


幸せなことなんだな。




そして


手放すことで


わたしはまた一つ自由になれる。

 

 


だから


この複雑極まりない感情を


今は大切にしようと思う^ ^




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大好きだよ。

愛してるよ。