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その2 こちら


母と娘のお宮分けについて書きます。

この「お宮分け」という言葉も、今思えばインスピレーションで生まれた言葉でした。


ご存知のようにわたしは男の子しかリアルには育てていないので
女の子の子育てで、よくある

「母と娘が対等に喧嘩しちゃう」というお悩みがよくわかりませんでした。

でも、すごく女の子の子育てをされている方は
ここをよく訴えられていたのと


「母といるとどうしてもイライラする」
というのも、よくあって

産後に実家に帰ったときとかね
あと、同居している人とかね

ほら、嫁、姑問題もそうでしょ。

これらのお悩みをじ~っと考えていたときに、浮かんだ言葉です。


そのことについて、書いた記事はこちらです。
『母と娘 お宮を分かつ』



わたし自身の話をすると、母とのお宮分けは、苦もなくできました。

先日の長男との会話でも書いたように
うちの母は、変わった人の部類でした。


わたしのことをいつも「すごいね~」って認めてくれました。

威圧的になにかを強制された記憶はなく、いつも気持ちに寄り添ってもらっていました。

その上
どんくさくて、大人っぽくなく
自分勝手に世間の常識を破る人でしたので

人間関係ではいろんな苦労もしていましたし
父との関係でも苦労していました。


だから、娘であるわたしは

母のこと、馬鹿だな~と思ってました。

そのことが今思うと、わたしにとっては、とてもありがたかったんですね。


ただ、とってもいつも不幸そうでした。


だから、わたしは「お母さんのことを幸せにしてあげなきゃ」という思いは
とても強く持ちながら、育ちました。



これで、母が威圧的な人だったら、もっと強い歪みをもらっていたかもしれない。

これで、母が「デキる」人だったら、もっと強い劣等感をもらっていたかもしれない。


みなさんはどうですか?

どんなお母さんの元で、どんな娘でいましたか?

どんな影響をもらっていると思いますか?



そして、母のお宮(価値観)から抜け出ていますか?


お宮分けとは、自分のお宮を新たに立てる行為です。


人生の選択を自分の内側の神様とともに、やっていく。


「お母さんなら、どう思うかな?」
は要らないし

「お母さんに、なにかしてあげたい」
も要らない。


自分の人生における一瞬一瞬の選択を、「わたしのため」だけにしていく生き方。


もちろん、「お母さん」という単語を「夫」に変えても意味は同じ。

「子ども」に変えても意味は同じ。



お母さんにも
夫にも
子どもにも

満たされて溢れたものを与えられるから、
安心して

まずは自分がどうしたいか?を
選択のたびに、中心におくんです。





お母さんという一人の女性を

一度は猛烈に嫌いになっていい。


お母さんという一人の女性を

一度は猛烈に軽蔑していい。



それをやりきったら、見えるんですよ。


「お母さんのこと好きだから」という仮面の下で見えなかったことが
見え始めます。


お母さんもただの女だったということ。


今のわたしと同じ

ただの未熟で偏ってて

でも幸せになりたくて

女としての楽しみ方を知らなさすぎて

運命に飲まれすぎてて

気付けなかっただけの

ただの女だったってこと。



そこから、愛情が溢れます。

感謝だって溢れます。


わたしはここを通過していないところである「愛」も「感謝」も偽物だと思ってる。



わたしも女で、お母さんも女。


ここから目を背けるな。






お母さんからもらった価値観で

要らないと思うものは、捨てましょう。


それは本当の意味で

お母さんの命を信頼する行為につながるんですよね。



その時代に生まれたお母さん。

そのパートナーを選んだお母さん。


お母さんの体験すべてが、「お母さんがやりたかったこと」なんだとしたら

そこに娘の価値観で色付けすることが、どんなに馬鹿なことかって思いません?



そんな暇があったら

わたしはわたしの人生に集中していけばいいんだよ。




なにか伝えたかったら

あり方で魅せつけていけばいいんだよ。




願いの叶え方って、順序があってね

自分が得てもいないことを、相手にはあげられないから。



だから、あげまん道では

まず自分。

まず自分ということを強く伝えてるんですよね。