これ、たぶん響かない人っていないと思うのですよ~


多かれ少なかれ


「いい子」に捉われて、大人になっても生きてる♪



若手のホープ


大好きなけんけんのブログ記事を、全文ご紹介します~↓



ブログ  悟りの邂逅(かいこう) から



「いい子」にならなくちゃ




子どもにとって一番辛いこと。


それは親の


がっかりした


顔、表情、仕草、物言い。



子どもの心を傷つけるのは簡単。


(あーぁ・・・)


という表情と言い方で、そのけだるさをぶつければいい。



子どもはその表情に恐怖を感じる。


なぜならば子どもは親に見捨てられたら、生きていけないからだ。


そして子どもはこう思うようになる。



もっと、いい子にならなければ―。



そつなく、ミスなく、いう事をちゃんと聞いて、


よりよく、嫌われないように、失敗しないように




すべての不幸の始まりはこの


もっといい子にならなければ


という思い込みから始まります。



なぜこれが不幸かというと、そもそも「いい子」というのは、

あってないようなもの、というより、そのような基準はこの世に存在しないからです。


ないものを、求めるのですから、苦しいに決まっています。


もっといい子に


もっともっといい子に


その根源的欲求を支えに、ある子は勉強を頑張り、ある子はスポーツを頑張り、

ある子はやさしくなろうとします。


表面上は問題ありません。


むしろ、一般的に「よい事」として評価されるので、

自分も周りも、それでいいと思っています。



ですが。



こころのどこかには絶えず隙間風が吹いているのです。


どこまでやっても、何か足りない、何かが満たせない、焦り、不安・・・


それもそのはず、それらの原動力となっているのが、

あの子どもの頃に自分に植え付けた



もっといい子にならなければ



という呪文だからです。



これは10歳であろうが80歳だろうが、変わることはありません。


人はおおむね「いい子」になるように頑張って生きています。



いい子に、いい子に・・・



それ自体はとても自然な気持ちです。


なぜならその気持ちを抱くのは子どもの頃で、

子どもにとっては親からの評価が自分の生命を左右しているからです。

いい子にならなければ、愛さないと思うのです。



しかし何度も言うように、その「いい子」というのが、

一体全体何を指しているのか

本人、そして親も含め


誰もわかっていない


のです。



これを僕は“不幸”と言っています。


そう、僕たちは「いい子」を目指して毎日頑張って仕事をしたり、お金をかせいだり

結婚したり社会的なステータスを身に着けようと躍起になるのですが、


どこまでいっても、その肝心かなめの「いい子」になったような気がしないんです。



あれれ・・・?






ひとつ言えることがあるのなら、

この世にいいも悪いもありません。


それは漠然とした、ある特定のイメージでしかありません。


例えばある国では


いい


とされることも、国が違えば


悪い


ことになったりします。


結局、いいとか悪いとか、そのようなものは人間側の都合であって、

絶対的ないい悪いという軸が存在するわけではありません。





だとしたら―。



いい子になる。



その呪文を解いてあげてもいいんじゃないかと思うのです。


なぜならいい子になった人間などかつていたことがないし、

これからもいないでしょう。


もしあなたが何をしても満たされない、何か隙間風のようなものを感じると思うのなら、

それは未だに「いい子」になろうと頑張っているからかもしれません。


そしてそれは永遠に満たされることはないでしょう。



試しにあなたの考える


いい子


というのを想像してみてください。



たぶん、そこにいるのは何十回生まれ変わったとしても成り得そうにもない

まるで機械のようなミスターパーフェクトでしょう。


少なくとも人間らしさというのがそこにはないと思います。


誰にでもやさしくて、愚痴ひとつ言わない、

仕事ができて、社会的信用があり、お金も潤沢にあり、人望もある。

親を大切にし、道徳心も兼ね備え、健康体であり誰からも愛される。

家族を大切にし、妻をいつも愛し、子どもにはやさしく。

平和を愛し、死ぬときは大勢の人に囲まれて、息をひきとる。


どうです?「いい子」でしょう?



ただし僕はそんな人と友達になりたいとは


これっぽっちも


思いません。



口も聞きたくないでしょう。






あなたは、たぶん、既に十分すぎるほど


いい子


なんです。


少なくとも、「いい子にならなくちゃ」と思える気持ちをもっている時点で、とてもやさしい。


そのやさしさがあるのなら、それだけで十分、賞賛に値されます。

人間として十分、美しい。



だからこそ、もうその「いい子」というスローガンを下してもいいのではないかと思うのです。



あなたが「いい子」になろうとすればするほど、自分がいい子になるための試練が課せられます。


なぜならあなたは「いい子になる」というのが人生のミッションだと思っているからです。



そしてそれは元をたどれば、いつかみた親からの


がっかりした


顔、表情、仕草、ものいい


だったのかもしれません。



そのときからあなたは「いい子」になるように人生を歩み始め、

そのまま死んでいきます。


「いい子」というのが何かまったくわからないまま―。



この構造を見ていると僕はどうしようもなく

悲しいと思ってしまいます。



どんなに強がっていても、どんなに権力を振りかざしていても、

みな一様に


「いい子」


を目指して頑張ります。


そして運よく「いい子らしきもの」になれる人がいます。


それは先述のように社会的ステータスや賞賛を集められた人たちです。



でもいい子らしきものにすらなれなかった人はどうなるのでしょう。


彼らは自分を責めるでしょう。


なぜならいい子になれなかった自分は生きている価値がないと思ってしまうからです。


(自分には生きている価値がない―)


ある人は自らの手で人生を終わらせます。



おかしいと思いませんか?


「いい子」というのは


存在しない幻想です。



誰も答えを見いだせない、ただのイメージなんです。



それに振り回され、あげく、もっとも悲しい決断を下してしまう。



これが不幸でないのなら、何が不幸なのか、僕にはよくわかりません。






呪いというものがもしあるとすれば、こういうことなのだと思います。



人を苦しめる方法など簡単です。


いい子になれ、いい子になれ、いい子になれ、いい子になれ、いい子になれ


と100回でも言えば、その人は地獄へ行けます。


決して満たされることのない、渇きの世界へ。



おおよそ、社会の大筋のテーマはこの


いい子になれ


です。


家でも、地域でも、学校でも、会社でも。



なぜそうなるのかというと、みな、子どもの頃に



いい子にならなくちゃ



というスローガンを掲げたからです。


そうしていい子になることが「この世に生まれてきたテーマ」になり、

社会全体でそれを行っているというわけです。



いい子にならなくちゃと思っている親は、子どもにもいい子になってほしい。


そしてその子どもも大人になり、結婚し、子どもができたら、その自分の親に「ほら、自分はいい子になったんだよ」という意味を込めて、自分の子どもにいい子になってほしいと思います。


そしてある日、自分の「いい子像」からはみ出した行動をとった子どもに、顔をしかめてこう言うのです。




あーぁ・・・








これ書いててちょっと泣けてきました。


悲しいですよね。


どんな大きな争いも、元を辿っていけば、

こんなことなんですよね。


みんな「いい子」になろうとして必死なんです。


別に誰を蹴落としたいとか、誰を虐げたいとかではなく、


ただただ、「いい子」になろうとしているんです。



愛らしくもあり、悲しくもあり、そんな気持ちにさせられます。



いい子にならなくちゃ―。



もしそう思っている人がいたら、

僕は肩をポンポンと叩きながらこういうでしょう




いい子になったね、もう十分だよ、ありがとう。




その終わりのないミッションを、

今ここで終了させてあげることができたらなぁ・・・




そんなことを思っています。




ここまで☆



泣けません?



わたしは4月の参加したセミナーで


これに気が付いて、嗚咽して泣きました。