著者
勝間和代
香山リカ
ISBN
978-4-02-330482-6
2010年1月30日 第1刷発行
勝間和代さんと香山リカさんの対談。
あまり攻撃的なこと言いたくないのだが、、、
読書中も読後もイライラしました。
兎にも角にもイライラしてしまい
『あー、時間の損だった!』と。
しかし何故こんなにもイライラするのか。
イライラや違和感を覚える時にこそ、
その先に何か新しい発見が隠れていることがある。
他の人の感想が知りたく
アマゾンのレビューなどを読んだところ
しっくりくるものが1つあった
『努力家の勝間に対して
天才肌である香山リカが
からかいをかけている印象を受ける。まるで軽いイジメを目撃しているような不快感があった。』
そうなの!!言い得て妙!
香山さんの言葉からは、
「こんかダメな私からすると、、、」と「謙遜」を装いつつ、
勝間さんに対する『見下し感』を感じた。
(かつて読んだ小島慶子さんの記事を思い出しました。
女芸人から女性アナウンサーへの
謙遜という名の愛情ゼロのイジリ。
注1
『私にはブスの気持ちは分からない』
文末にリンクと一部抜粋載せておきます。)
勝間さんが真剣に答弁をしてるのに対して香山リカさんは
隙あらば『でもでも』と言って揚げ足を取り続け、議論が進まなかった。
対談と言うものはこういうものばかりなんだろうか。
今回初めて対談本をよんだが、対談本はこれが一般的なのか?
決定的なのは、あとがきの部分で
勝間和代さんが
『香山さんとも今後とも、何らかの形で対談を続けさせてください。』と結んでいるのに対し
香山リカさんは
『今後は、遠くからご活躍をお祈りしています。(中略)どうぞお元気で。』
丁寧な言葉で捨て台詞?
最後にまた不愉快な気分になったわ。
香山リカさんの著書はいくつか読んだことがあったし、読んだ当時は好きだったのだけどなぁ。
ただ1つ分かる事は
『モヤモヤ』って感じるときは
自分の考えを多様化できるチャンスが隠れている信号かもしれない。
私はどちらかと言うと洗脳されやすい。
本を読むとすぐに影響受けてしまう。
そこに書いてあることが正しいと思ってしまう。
なので1人の著者が書いてる本読むと
読後に「万能感」というか「爽快感」がある。
あー!なんて素晴らしい知恵なんだ。
私の生活に落とし込むとしたら、どういうことかな、ワクワク。と。
しかし対談を読むとそう言うわけにはいかない。
対談者双方の言い分が全く異なっても、
例えば対談者同士が第3案や妥協案を見つけ出して、話がよい加減にまとれば読者の私はラクだが、
今回のように平行線のまま対談が終わってしまった場合、私はモヤモヤしてしまう。
さらに、先述のとおり、香山リカさんのあとがきでイライラしてしまう始末である。
しかし、実はそのイライラした先に
『なぜ自分はイライラしたのか』
『どの部分は賛成できるけどどの部分に違和感を感じたのか』
『なぜ違和感を感じるのか?』
と考えると自分自身も気づかなかった本心や考え方のクセに気づくことがある。
この作業、とても疲れるけど、これこそが
私がいま一番ほしいもの『自分の頭で考え、自分の意見を持つ』を
読書を通して訓練できる!
これまで私にとって読書は娯楽だった。
さきほど書いたように読後の爽快感や万能感を得られるものだった。
しかし読書から『考える力』を養うには、私の場合、こういった対談形式ものが良いのかもしれない。
そしてその先には、1人の著者が書いた著書であっても、
洗脳されず、自分で考えることができるようになるのだろう。
対談ものをもっと読んでみよう!
2019年4月20日
注1
私には「ブスの気持ち」がわかりません。【小島慶子のパイな人生】
https://wotopi.jp/archives/81435
〜一部抜粋〜
「私らブスですから」で笑える自虐話を披露している人と同席していて、とても居心地が悪かったことがあります。私が彼女たちの話に笑っても笑わなくても、嫌なやつにしか見えないから。
話しかけると排他的なリアクションをされ、「ほらやっぱり、美人は言うことが違うねー」と混ぜっ返して盛り上がる。練り上げられた自虐ネタに周囲は大ウケで、リアクションを取りかねている私だけが取り澄ました女みたいな格好になるという地獄。
座っているだけなのに周りにどんどん濠を掘られ、底の方からこちらを見上げて「うわ、お高くとまってるー」と言われた感じ。生きてるだけで罪ですか。
勝間和代
香山リカ
ISBN
978-4-02-330482-6
2010年1月30日 第1刷発行
勝間和代さんと香山リカさんの対談。
あまり攻撃的なこと言いたくないのだが、、、
読書中も読後もイライラしました。
兎にも角にもイライラしてしまい
『あー、時間の損だった!』と。
しかし何故こんなにもイライラするのか。
イライラや違和感を覚える時にこそ、
その先に何か新しい発見が隠れていることがある。
他の人の感想が知りたく
アマゾンのレビューなどを読んだところ
しっくりくるものが1つあった
『努力家の勝間に対して
天才肌である香山リカが
からかいをかけている印象を受ける。まるで軽いイジメを目撃しているような不快感があった。』
そうなの!!言い得て妙!
香山さんの言葉からは、
「こんかダメな私からすると、、、」と「謙遜」を装いつつ、
勝間さんに対する『見下し感』を感じた。
(かつて読んだ小島慶子さんの記事を思い出しました。
女芸人から女性アナウンサーへの
謙遜という名の愛情ゼロのイジリ。
注1
『私にはブスの気持ちは分からない』
文末にリンクと一部抜粋載せておきます。)
勝間さんが真剣に答弁をしてるのに対して香山リカさんは
隙あらば『でもでも』と言って揚げ足を取り続け、議論が進まなかった。
対談と言うものはこういうものばかりなんだろうか。
今回初めて対談本をよんだが、対談本はこれが一般的なのか?
決定的なのは、あとがきの部分で
勝間和代さんが
『香山さんとも今後とも、何らかの形で対談を続けさせてください。』と結んでいるのに対し
香山リカさんは
『今後は、遠くからご活躍をお祈りしています。(中略)どうぞお元気で。』
丁寧な言葉で捨て台詞?
最後にまた不愉快な気分になったわ。
香山リカさんの著書はいくつか読んだことがあったし、読んだ当時は好きだったのだけどなぁ。
ただ1つ分かる事は
『モヤモヤ』って感じるときは
自分の考えを多様化できるチャンスが隠れている信号かもしれない。
私はどちらかと言うと洗脳されやすい。
本を読むとすぐに影響受けてしまう。
そこに書いてあることが正しいと思ってしまう。
なので1人の著者が書いてる本読むと
読後に「万能感」というか「爽快感」がある。
あー!なんて素晴らしい知恵なんだ。
私の生活に落とし込むとしたら、どういうことかな、ワクワク。と。
しかし対談を読むとそう言うわけにはいかない。
対談者双方の言い分が全く異なっても、
例えば対談者同士が第3案や妥協案を見つけ出して、話がよい加減にまとれば読者の私はラクだが、
今回のように平行線のまま対談が終わってしまった場合、私はモヤモヤしてしまう。
さらに、先述のとおり、香山リカさんのあとがきでイライラしてしまう始末である。
しかし、実はそのイライラした先に
『なぜ自分はイライラしたのか』
『どの部分は賛成できるけどどの部分に違和感を感じたのか』
『なぜ違和感を感じるのか?』
と考えると自分自身も気づかなかった本心や考え方のクセに気づくことがある。
この作業、とても疲れるけど、これこそが
私がいま一番ほしいもの『自分の頭で考え、自分の意見を持つ』を
読書を通して訓練できる!
これまで私にとって読書は娯楽だった。
さきほど書いたように読後の爽快感や万能感を得られるものだった。
しかし読書から『考える力』を養うには、私の場合、こういった対談形式ものが良いのかもしれない。
そしてその先には、1人の著者が書いた著書であっても、
洗脳されず、自分で考えることができるようになるのだろう。
対談ものをもっと読んでみよう!
2019年4月20日
注1
私には「ブスの気持ち」がわかりません。【小島慶子のパイな人生】
https://wotopi.jp/archives/81435
〜一部抜粋〜
「私らブスですから」で笑える自虐話を披露している人と同席していて、とても居心地が悪かったことがあります。私が彼女たちの話に笑っても笑わなくても、嫌なやつにしか見えないから。
話しかけると排他的なリアクションをされ、「ほらやっぱり、美人は言うことが違うねー」と混ぜっ返して盛り上がる。練り上げられた自虐ネタに周囲は大ウケで、リアクションを取りかねている私だけが取り澄ました女みたいな格好になるという地獄。
座っているだけなのに周りにどんどん濠を掘られ、底の方からこちらを見上げて「うわ、お高くとまってるー」と言われた感じ。生きてるだけで罪ですか。