正論、は「安心」だと思ってた
正論ニストになれれば
「強くなれる」気がしてた
‥
わたしは小さい頃から
じぶんに一貫性がなくて
まわりを不機嫌にしてしまうことを
おそれてる子どもだった。
でも怒ってくるひとにも
一貫性がなくて、その不可解さにも
おびえてて
その場その場で変わる、
正解、不正解がわからないから
いつしか自分の気持ちには
ダンマリになった。
だから、
正論は不変。確固たるもの。
正論はまちがえない。
正論をもてたら
強くなれる。
この怖さから解放される
て、思い込んでた
とにかく
頭でっかちに
本からの知識で、社会的な常識、道徳感
をつめこんで
武装をもくろんだ。
これさえあれば。
もたないような人、怒ってくるひと
のことは、見下すことで
自分を守ろうとした。
でも、残念なことに
知識は学べても、
わたしには知恵がなかった。
自分ごととして
落とし込む、過程をすっ飛ばした
ただの「正しい話」は
自分も相手も無用に傷つけるだけ。
しかも、
正しくあれない、と
勝手に見下してたひとと
おなじになってしまう。と
自己嫌悪と自責がますます
ひどくなった。
勝手に決めた「正しさ」を
もとめすぎて
がんじがらめ。
強くなれるはず
もう怖くなくなるはず
だったのに
自分でも気づかないうちに
どんどん心が死んでいって
自分の喜怒哀楽、好き嫌い、快不快
ぜんぜんわかんなくなって
ある日、喉のかたまり感で息が
吸いにくくなってることに気づいたとこから
パニック症と診断。強制的に社会と
断ち切れた。
あーなにが言いたいんだっけ?
そうそう。
いまだに「正論ニスト」は顔を出すし
そっちの方がわたしが傷つかない方法
のように思えてしまったりする。
わかりやすいし、
間違ってない!正義だ!て
てっとりばやく白黒つけて
勝てて、
気持ち良くもなれそうな気がする。
(実際は、一時的な高揚感があるだけ)
でも、感情が死んだときの
わたしを思い出す。
正論が悪いものではない、と
思うけど
過度な摂取は劇薬になるんじゃなかろうか?
少なくとも「正論ニスト」を掲げた
わたし、より
キャパ小、ポンコツでふにゃメンタル
甘えん坊の拗ねやすいかまってちゃん
考えすぎ、妄想で沼りやすい
情緒不安定でハカハカ臆病な
わたし、を少しずつ、出せてきてる
今、のほうが、
ずっと楽に息ができてる。
生きられてる。
それを忘れたくないな
て、思った。
かわ♡