私の思う「お茶」 | のんべんだらり

私の思う「お茶」

昨日・今日と冷たい雨が降っているこの地です。みなさん、風邪などひかれてませんか? この2日の雨できっと満開の桜も散り、「また来年ね」と去っていくことでしょう。そんなことを思うとふと物悲しくなります。

 

 

 

さて、今日、茶道宗徧流の退会届を送付し、完全に茶道を辞めました。

 

もともとお茶を点てる事が単純に好きで、辞めた今もその気持ちは変わりません。ただ、茶道の心の部分が「私の思うところ」と「先生の思うところ」が違い、また、「社中」なるものに入るとそれなりの「ルール」のようなものがあり、その「ルール」は往々にして「お金」であることを知り、嫌になってしまいました。

 

「お茶は儲からない」とか「お中元・お歳暮は物ではなくて現金がいいのよ」とか「お茶事に招かれたら最低でも月謝分は包むものよ」とか言われると、「ちょっとちゃうんちゃう!!」って思ってしまいます。お中元もお歳暮もなんもしてなければ、そりゃ、そんな風に言われても仕方ないかもしれないけど、金額の多少はあれ、それなりに出来る範囲でしてきました。そしてせっかく贈った物を「自分でもたくさん買って3年分以上もあるのよ。ちょっと迷惑ね」みたいなことまで言われて・・・。その言葉は絶対に言ってはいけない言葉ではないのでしょうか? 物であれ、お金であれ、贈り物をする時はその人のことを考え、お礼の気持ちを込めて贈るものだと私は思ってます。その「気持ち」が一番重要だと私は考えます。そこに「茶道の心」が少しあるのだと思います。

 

侘びださびだというけれど、お茶会などに出てくるお茶碗をはじめとする道具は、お偉い作家様の作品で「車一台分」の値段のするものなどが出てきます。そしてそれをまぁ、歯の浮くような台詞で褒めちぎり、いや、ほめごろします。なんだか違うと思うんですよね、私は・・・。

 

「一服のお茶」を点て、どうぞ、このひと時はごゆっくり心穏やかにすごしてくださいっていう気持ちが「茶道の心」だと思うんです。仮にお茶碗は安物でも(それこそ100均のものでも)よくって、その「心」が重要だと私は今でも思ってます。人の気持ちを慮ることを学ぶのも茶道の心だと思います。だとしたら、あの「お歳暮に頂いたのはうれしいけど、自分で買ったので一杯あって・・・」なーんていう言葉は茶道の心と反していると思います。絶対に。それを言われた側の気持ちを考えたら、そんなこと言えないはずですものね。

 

茶道の先生方の使う言葉は「・・・でございます」とか「さようでございます」とか「存じます」とか「ごきげんよう」とか、まぁ、かみそうな言葉を使いますが、そこに「心」がなければ意味がありません。たとえそういう言葉でなくても、丁寧語の域を出ない言葉でもそこに「心」があれば、その言葉の方が私はずっと美しいと思います。「美しい言葉の勉強」というけれど、果たしてそうだろうかと思います。

 

 

 

一緒にお稽古をしていた方々と機を同じくしてお茶を辞めますが、幸運にも「また、一緒に、気取らず、気楽に『抹茶を飲もう会』しませんか?」と誘うと、それいいねぇーといってくださいました。私を含め、3人ともお茶がすきなんですねぇー、きっと。それこそが本当の「お茶」だと私は思ってます。お点前の順番よりもそういう「心」が大事だと思ってます。

 

 

 

問題発言からひと月とちょっと。ようやく私の中でピリオドがしっかりと打てたような気がします。まぁ、問題発生は今年の初釜からだったんですが、もう、そんなことはどうでもいいです。

 

 

 

ここに改めて、私の愚痴をメールで聞いてくれた方、直接、会って黙ってきいてくれた方に心からお礼申し上げます。あなた方の言葉と姿勢に私は自分を失わずにいれました。自分の思っていることが「ある意味で正しい」と自信がもてました。これからもどうぞ助けてやってください。支えてやって下さい。そして有難う。m(__)m

 

 

 

「その道に入らんと思う心こそ、わが身ながらの師匠なりけり」

 

 

 

そんな言葉を心にまた刻んでしまいました。

 

 

 

さーて、いつ、「抹茶を飲もう会」しようかなぁー?!

 

(^_^.)