臨床指導をしておりまして、実習に来る看護学生さんがプロセスレコードという記録を書くんです。
その時に振り返るのが、患者さんとの対話を通しての自分の気持ちと言動(どう思って、何をした、何を言ったか)です。
患者さんとの対話に違和感を感じつつも、それに気づかないふりをして明るい話題に変えてみたり。。。
患者さんの拒否的な言動に、自分の全てを否定された
って思って引き下がってしまったり。。。
そうしたコミュニケーションの傾向って、自分の心を守るために無意識にとってるんですね。
例えば、人からいじめられた経験があったら、拒否的な発言に過剰に反応したり。。。(患者さんの虫の居所が悪かっただけかもしれないのに
)
そうしたワークを通して、学生さんたちが自己一致できることを学校の先生たちも目指しています。
自分が本当は何を感じたのか?
どうしてそうしたのか?
無意識に行っている行動を振り返るって、学生さんにとっては見たくない自分の心の傷を見たりして、時に辛い作業になります。
親に認められたかったのに認められなかったとか
自分の意見を言ったら常に潰されてきたとか
もう仲間はずれにされたくないとか
泣きながら教員と話してる学生さんもいます。
自分と向き合う作業、それは時に痛みを伴う作業でもありますが、絶対に役に立つし、必要不可欠だと確信しています。
私が若い頃、自分の意見ってなかなか言えなかったんです。
自分が何を感じていたのか、何をしたいのか、何が嫌なのかが分からなかったのです。
何故なら、他人軸で生きていたから。
周囲の機嫌ばかり伺っていました。
幼少期から。
殺伐とした家庭の中でどう立ち回ったらいいか物心ついたときから常に考えていたから。
大人になって、初めて分かるんです。
自分がいかに子供の時から自分を殺して生きていたか。
学生さんには、辛い作業かもしれないけどしっかり向き合ってもらいたい。
自分を知ること、自分を理解することが何より大切なことだから。