父の病と向き合うこと パート1 | ちゃむぎの徒然日記

ちゃむぎの徒然日記

以前はトレーニングのことを書いていましたが、最近は思うことがあり、また徒然なるままに自分の思いを書いていこうと思いました。

いつもワクワクしている父。


音楽特にフォークソングが大好きで、同い年の吉田拓郎とともに人生を生きてると思ってる父。ここ最近はオーラスの横浜公演に2回連続行けてます。拓郎はマジで神。


あらゆることにる興味シンシンで子供のような好奇心を持つ父。



運転がうまくて、バイクも好きで、3年前は一人で鈴鹿サーキットに行って鈴鹿8耐を見に行っていた父。


手先がとっても器用で、柔らかいカラーの針金を使った針金細工をえんえんと酒を飲みながら作っていた父。作品をあらゆる人に贈り、またほしいと言われたら讓る。工夫をこらして進化し続けるアイデアマン。



ご飯もモリモリ食べ、お酒も大好きな父。


運動神経抜群で短距離走はメチャクチャ早かったし、田んぼゴルフ優勝、ソフトボールは名ピッチャー。




そんな父が、去年の9月に突然ALSと診断された。


異変に気づいたのは、その1年くらい前から右手の親指の水かき部分の筋肉が痩せ、お箸をうまく持てなくなった。

上半身を自分でうまく支えられず、前に倒れてしまいそうになる。そして酷い腰痛。


かかりつけの内科クリニックではあまり見てもらえず、昨年2月に大きい病院の整形外科病棟に入院して手根管症候群の手術をしたけど症状は治らず。

術後の酸素マスクを装着したあたりから、次第に呼吸の苦しさが出てくる。上半身を精いっぱい使って呼吸するため、疲労感も半端ない。ご飯もあまり食べられず、痩せてきた。

見かねた地域の人たちに勧められ地元の評判の温泉クリニックの呼吸器内科医の診察を受ける。ただ事じゃないと速やかに大病院の循環器内科あての紹介状もらって診てもらう。

そこでもこれは大変だと大きな市内の基幹病院の神経内科医に紹介状を書いてくれ、受診。

すぐに入院となり、確定診断はないままに免疫グロブリン療法を実施してもらう。

グロブリン療法3クールを終えたあと、大学病院の先生と父の主治医で何回も筋電図。ここで、ALSに特有の筋電図の波形が見られたことから、家族同伴の元、ALSでしたと、確定診断を受ける。

父はとても受け入れられる状況じゃなく、あまりのショックに表情をなくしていた。

横浜にすんでいる私が、仕事の都合つけて帰ろうかと話すと、『帰ってきてほしい』と。こういうことを父が言うのは初めてだ。


勤務調整してもらい、翌日早朝鹿児島へ。バス停まで軽トラで迎えに来てくれた父の姿を見た時、あまりの変わりように涙を隠せない。骨のようにやせ細り、顔は呼吸の苦しさから歪む。ガボガボになったズボンをベルトが精いっぱい留めている姿が痛々しかった。『おう、かえったな』と短く一言。マスクで涙が隠れる。あたりさわりない会話をするけれど、私の心に渦巻いていたのは、どうして早く気づいてあげられなかったんだろう。なんでここまで進むまで病院でも気づかれなかったんだろう。キツかったよね、辛かったよね、私看護師なのに、何も役に立ててなかった。お父さん本当にごめんね。口を開けばもうこんなことしか言えなかっただろうから、もう帰り着くまで無言。窓の外を見ながら密かにボロボロ流れる涙を風で飛ばしてもらう。


また続く。


荒削り投稿ですみません滝汗


私達家族の内的な葛藤やこれから父に起こるであろう出来事、気管挿管をするのか、人工呼吸器をつけるのか、胃ろうはどうするのか、たたみかけるように意思決定の大波がバッしゃんバッしゃんやってきます。

とのようにここらへんの荒波を乗り越えて行くのかをまた徒然なるままに書きたいと思います。