”世界が一握りの強国の植民地でなくなり、「売らない」の恐怖に怯える必要のない現在という結果をつくったのは、大東亜戦争を戦った先人たちの歴史であるということを忘れてはいけません。そして、大東亜戦争という歴史の水滴は暗闇の中にあったと教えるのではなく、陽に当ててみれば虹のように美しいものが見えることを、日本の歴史教科書は子どもたちに教えるべきなのです。母国の歴史に対する誇りを失い、過去を否定してしまった国がどうなってしまうかということに、いい加減気がつかなければなりません。“

表紙をめくると、飛び込んできたのが上の文章である。

(本文より)とあった。

オレは昨年から、近現代史を中心とした歴史書を少しづつ読んできた。

そして、少なからず見えてきたのは、今まで学習してきた教育の中で得られた知識とは凡そ異なった内容のものであった。

我々の世代は、先の大戦は我が国の侵略戦争という一貫した結論を学ばされてきた。

悪いのは全て日本であり、日本人なのだ、と。

アジアの国々の人々に耐え難い苦痛を与えて搾取した悪い民族なのだと…。

常に反省であり、自虐である史観で覆われていたといってよいだろう。

国の教育になんの疑いも持つことなく育ったオレは、そんなものか、なんて思いつつ、当たり前の知識として捉えてきた。

しかし、これまでの、ま、どちらかといえば左翼がかった思想の多くが戦後、教育機関を席巻していた状況を見れば、当たり前のことなのであるが…。

前置きが長くなったのであるが、この著書、渡辺淳一氏と元航空幕僚長の田母神俊雄氏との共著、『自虐史観を真っ向から覆すリレー対論』をまとめた本なのである。

先の大戦で、日本が自衛のために、しかも、あらゆる手段を講じて米との戦争を回避しようとしていたにも関わらず、やむを得ず参戦していった経緯を実に分かりやすく話しておられる内容となっておりました。

特に印象に残ったのが、戦後、GHQの占領政策の一つ、戦前戦時の間に書かれた書物の「焚書」指令についての事である。

それは、実に7769冊にも及び、日本のドイツ文学者、評論家でもある西尾幹二氏の尽力によって、焼き討ちされた書物、焼き討ちを逃れた書物の内容が明らかにされつつある(『GHQ焚書図書開封』徳間書店からシリーズ刊行中)。

そして、その内容は、アメリカにとって「不都合な真実」そのものなのである。

その『不都合な真実』たる人種差別の意識を取り上げた著書を一部取り出してみますと、

「アングロ・サクソン民族は、自分たちが選ばれた〈チョーズン〉『優秀な』民族であって、メキシコ人、或いは日本人、支那人などの黄色人種、更に況んや黒人のごとき『劣等な』民族は、梯子の最下層に置かれねばならぬといふ不遜な傳統的信仰を決して変へずに、何処までも保たうと躍起になつてゐるのである。」(『米國の世界戦略』大東亜戦争調査会編 毎日新聞社、昭和19年5月)

や、

会田雄次さんが第二次世界大戦下のビルマ戦線で英軍の捕虜となった自身の実体験を書いた名著『アーロン収容所』(中公文庫)にも次のように書かれており、当時の白人にとって人種差別の意識が当たり前の感覚であったことに気付かされるのである。

「その日、私は部屋に入り掃除をしようとしておどろいた。一人の女が全裸で鏡の前に立って髪をすいていたからである。ドアの音にうしろをふりむいたが、日本兵であることを知るとそのまま何事もなかったかのようにまた髪をくしけずりはじめた。部屋には、二、三の女がいて、寝台に横になりながら『ライフ』か何かを読んでいる。なんの変化も起こらない(略)」
 入ってきたのがもし白人だったら、女たちはかなきり声をあげ大変な騒ぎになったことと思われる。しかし日本人だったので、彼女らはまったくその存在を無視していたのである。」

“つまり、白人女性にとって日本の男性、有色人種は犬猫と同じ存在だったということです。こうした白人のアジア人に対する見下した意識を当時の日本の政治家や知識人たちは、明治維新の頃から知っていました。だからこそ、日本が欧米の植民地にされることだけは回避しようと、朝鮮や支那で戦い、最後はアメリカと戦った。〜簡単に言えば、これが戦前の日本の歴史なのです。”

ここに、欧米列強をはじめとする連合国軍に戦いを挑まざるを得なかった先人たちの決意が凝縮されているように思う。

日本が、先の大戦において自衛の戦争であったということは、連合国司令官のマッカーサーが、朝鮮戦争の最中に解任され、アメリカに戻り、上院の軍事外交委員会の場ではっきりと、証言している。

日本には、資源が何もないということを強調したあとで、
「したがって、日本人が戦争に入った目的は、主として、セキュリティ、自衛を余儀なくされたためであった…。」

と、アメリカ一番公の場である上院の軍事外交合同委員会における宣誓後述しているのである。

戦後、GHQは、彼らの言う戦犯や戦争協力者をあらゆる職場の中枢から追い出すため、「公職追放令」を発布、戦前の日本を支えてきた人たちは、皆いなくなった。

そして、その空いた重要なポストに入ってきたのが、戦前は潜っていた“左巻き”と言われる者たち、戦前の左翼、いわばコミンテルンの手下のようなもので、日本のために戦おうなどという意識のない、戦前を否定する連中が頭角を現したのである。

その連中が、戦後の自虐史観教育を徹底したのである。(日教組、教育基本法などで)

戦前が全て良かった、或いは日本軍が全て素晴らしかったなどと賛辞する気は無いが、

ただ、思うことは、行き過ぎた(左翼思想に傾いた)考えを押し付け、自国を貶める教育は排除されなければならないし、事実に基づいた歴史教育というものがなされるべきであって、そうすることで正しい未来の進むべき道を歩んで行けるのでは無いかという結論に至った次第であります。

『歴史とは常に勝者によって書き換えられた歴史である』

至言ではあるが、我々日本人は、もうその呪縛を断ち切らなければならないと思うのである。

このブログの内容とはまた全く違う雰囲気の一曲、古いAOR。

いい雰囲気の爽やかな曲を見つけた。

すぐに気に入った曲。

こういう曲に出会うと嬉しくなる。

人生の喜びを感じる瞬間だ…。