インドネシア『ジョヨボヨ王の予言』

以前の記事にも少し書かせてもらったのでありますが、貶められた日本軍、そして日本人としての矜持を保った行動は大いに讃えられて良いとの思いから改めて書かせて頂く。

1941年12月8日真珠湾攻撃が始まる前に、英仏に乗っ取られたマレー半島に日本軍が侵攻。

「マレー上陸作戦」である。

それは米英蘭に資源の供給を断たれた日本が、生きていくために必要な石油、石炭、錫、ゴムなどの資源を確保するための「自衛戦争」であった。

当時の日本軍は強かった。

それは、兵が精強だったからだけではない。日本兵は、白人に虐待され続けたアジアの民を助けるためと信じて戦ったのだ。

そこに正義があったから、無類の強さを遺憾なく発揮できたのだ。

だからこそアジアの国の人々は、日本軍に対し、進んで協力し志願兵となって共に戦った。

その数は、大東亜戦争終結直前には一万人となっていたといわれる。

当時は、フィリピンに常駐していたアメリカ軍の統括責任者であったマッカーサーも部下を残してほうぼうの体で逃げ出したくらいの勢いだったのだ。

その時の恨みが戦後の東京裁判(復讐裁判)となった。

戦後、ダグラス・マッカーサーの復讐裁判で銃殺刑に処せられた本間雅晴中将は、石油の輸送ルートを確保するための「フィリッピン攻略戦」でマニラに進駐するとき、

将兵を集めて、

「焼くな、犯すな、奪うな」を徹底させ、「違反者は厳正に処罰する」と訓示して軍規を引き締めたという。

欧米列強の国々と日本、日本帝国軍人の考え方の徹底的な違いは、まさにそこである。

「弱きを助け強きを挫く」

正に任侠の世界の気風や心意気を行動で示した日本帝国陸軍だったのだ。

そしてついに、三百四十年に亘ってオランダの収奪に苦しんできたインドネシアにおいて、日本軍がオランダを追い出したのだ。

それは、長い間オランダの収奪に苦しんできたインドネシア人の間に言い伝えられている「北から来た黄色い人が白い布を纏って空から舞い降り、白人を追い出してくれる」という伝説(ジョヨボヨ王の予言)が現実のこととなった出来事であった。

日本軍は油田をほぼ無傷で確保しただけでなく、「神」と呼ばれるにふさわしい行動もとったのであった。

具体的には下記のこと。

1、診療所を開設、病に伏せる島民の治療を開始した。
2、インドネシア人の言語を統一し、武器を与えて軍事教練を行った。
3、それは、自力で 「自由」と「人間の尊厳」を勝ち取る気概と術を叩き込むためのものであった。
4、それを元に結成されたのが郷土防衛義勇軍「PETA」であった。

1945年、日本がアメリカの軍門に降ると、オランダ軍が再びインドネシア人の生き血を吸うために舞い戻ってきた。

その時、2000人の日本兵が、日本で待つ年老いた父母、妻や、幼子の許に戻る事を諦めて「PETA」と共にインドネシアの独立のために戦い、その半数が散華したのだ。

日本がインドネシアにおいて「神軍」と言われる所以である。

“彼らはインドネシア人の手によって手厚く葬られ、英雄墓地に眠っている。

オランダとの戦いに生き残り、インドネシアを終の棲家にした日本兵もいる。

彼らは複数の妻を持つ。

イスラム教徒の多いインドネシアでは一夫多妻が認められているからだ。

祖国を救ってくれた英雄だ。女がほっとくわけがない。

日本軍が侵略などしていない何よりの証である。

我らが日本軍は解放軍であった。神軍であったのだ。”
(『日本が戦ってくれて感謝しています』井上和彦 産経新聞出版 参照)


私達は、戦後、アメリカユダヤを中心とした連合国側の取ってきた占領政策による教育によって、戦争に勝った側が正義で、負けた側が悪であるというかつてこれまでにない洗脳をされてきた。(それは今も続く、情報鎖国という状態がその極み…)

己等の極悪非道な悪事を隠すために徹底的に洗脳した、というのがホントのところなのではないか。

今、私達は戦後一貫して悪者にされ、ある国からは、お前らは罪深い民族なんだ、一生謝罪し続けろ、なんていう全く史実にあっていない理不尽な言動をされ続けている現状に、疑問を持ち、今一度あの先の大戦の本当の事を知るべく学び、それを知ることによってこそ、真の意味での日本の独立なのであり、世界における日本としての立ち位置というものが、どういうことなのか見えてくるのではないかと思った次第なのだが、そう思うのは私だけでしょうか…。

今さら古い戦争のことなど振り返って何になる、終わった過去の事など振り返るよりも先の事だよ、先を見て動くべきだろ、

なんていうご意見もあろうかと思いますが、時間は過去、現在、未来と繋がっております。

過去の働きが現在、現在の働きが未来と繋がっているのであります。

過去の正しい歴史を知るということ、すなわちそれは正しい現在、未来を創っていくことになりはしないか、などと飲んだくれのオヤジは考える次第であります。