『英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄』という本を読み終えた。

滞日50年、『フィナンシャル・タイムズ』『ロンドン・タイムズ』『ニューヨーク・タイムズ』の各支局長を歴任し作家三島由紀夫とも親交のあったジャーナリスト、ヘンリー・S・ストークス氏の著作である。

先の大戦における戦勝国の都合で作り上げられた「日本悪玉論」を断罪し、

南京事件、靖国参拝、従軍慰安婦などの問題について論じ、さらに、三島が命を賭して訴えようとしたものは何だったのかを日本人に問いかけている。

これらの問題は日本人の側から中国や韓国にけしかけて、問題にしてもらったのが事実であり、それをどうするかは日本人が自分で考えなければならないと促す。

そして、日本人が未だに連合国がでっち上げた「戦勝国」史観の呪いから抜け出せていないことを嘆き、本書が、その束縛から逃れる一助になれば幸いと語る。

さらに、「日本は相手の都合を慮ったり、阿諛追従する必要はない。アメリカはアメリカの立場で、中国は中国の立場で。日本は日本の立場でものを言う。当然それらは食い違う。だが、それでいいのだ。世界とはそういうものである。日本だけが物わかりのいい顔をしていたら、たちまち付け込まれてしまう」と、助言する。

前回のブログにも書いた、アジアの国々から先の大戦において戦ってくれてありがとう、という著作も含め、日本では、先の大戦における日本の参戦した理由が捻じ曲げられて伝えられているのが腹立たしい。

そして、そのことがマスコミを通じて広く伝えられないこともおかしな話だ。

アジアを白人欧米列強による支配から開放し、その高波はアフリカにも影響を及ぼし今日の人種平等の世界が招き寄せられたということに、先の大戦における日本の果たした役割は極めて大きいものであったと言わざるを得ない。

それをアジアの小国日本が、大きな犠牲を払って日本人が、先人達が成し遂げたのだ。

その事実を我々は知らなければならないし、後世に伝えなければならない。

今、憲法改正論議が高まっているが、その憲法改正について命を賭して国民に問題提起したのが、作家三島由紀夫である。

三島が常に考えていたこと、

『永遠に国を護ってゆくにはどうしたらいいか』ということであり、『日本には他国にない固有の歴史、文化、伝統を有していると信じ、外国人には理解できない日本の本質(エッセンス)がある』と思っていた。

そして、その日本独自の文化を防衛しなければならないと思っていたのである。

この国の精神的な在り方、魂とか、神性をどう防衛すべきかを考えていたのである。

そして、マッカーサーが天皇に『人間宣言』を強要したのは、次元が低いことであり、浅はかなことだと思っていた。

そのことを、三島は『英霊の聲』で痛烈に批判した。

占領軍と一緒になって、天皇の『人間宣言』を受け入れた国家と国民の在り方に警鐘を鳴らし、神話の時代から続く天皇と言う存在を否定することが、誤った道であると論じた。

『英霊の聲』の呪詛。

「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。
 などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。
 などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。」

天皇は人であると同時に、神性を持った神聖なる存在なのだ。現人神なのだ。現人神は人であると同時に、神性を持った存在なのだ、ということ。

三島が命を賭しても守ろうとしたのは、「国体」であった。

歴史ある主権国家として、天皇を戴く国家として、「国体」を取り戻すことであった。

すなわち、自衛隊を否定する憲法改正、自衛隊のアメリカの傭兵のような情けない地位を改めること、現人神としての天皇という存在を守ろうと訴えたのだ。

軍隊を欠いては独立国となりえないのに、自衛隊は擬物でしかない。属国憲法を改めて自衛隊を国軍として作り変えない限り、今日の日本は擬物の国家になってしまっていることを嘆き、社会に訴えたのだ。

日本は伝統と歴史を捨てた、いや、捨てさせられたのだ。

それは、もはや、日本ではなくアメリカの属国に成り果てた日本に対して、三島が命を賭して国民に訴えようとした魂の行動なのであったのではないか、と思う。