「私は神を信じている」・・そういう人は多いけれど、神に祈るという事は、実は自分の中の神に祈っているのと同じという事は、不思議と誰も知りません。
バガヴァッド・ギーター7章19節の会では、そのようなことを学びました。
以下に、ムニンドラ・K・パンダ先生からご教授頂いた内容をご紹介いたします。
(勉強会でノートにとったものをテキスト化したものですので、一部間違いがあるかもしれません)。
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【7章19節】
東洋では人は何度も生まれ変わると考えます。
西洋でも最近は、何回も生まれ変わる考えを認めつつあります。
私達はこの輪廻転生の中で積んだカルマによって、いいことも悪い事ももらっています。
ところで、「生まれ変わりがある」というその証拠には、どんなことがいえるでしょう。
TYさんの発言:
「はじめていった場所でも、はじめて行ったことがない気がします。」
はい、それも一つの証拠です。
はじめていった場所なのに、なぜか見覚えのある場所があります。
また、はじめて会った人のはずなのに、はじめて会った気がしない人がいますね。
しかしそれは、感じない人には感じません。
「私ははじめていった場所に、懐かしさなんて感じたことありませんよ」と言う人もいるでしょう。
他になにか証拠はないでしょうか。
Cさんの発言:
「生まれた時の境遇がみんな違います。子供には罪はないはずなのに、ある子供は今日食べるものもなく死んでいき、またある子供ははいて捨てるほど食べるものが有り余っています。」
そうですね。
みなさんは、それについてはどう思いますか?
ある人は歩けて、ある人は歩けない、ある人は白人で生まれ、ある人は黒人で生まれる、ある人は背が高く、ある人は背が低い、みんな同じではないですよ。
同じ日に生まれた子供でも、王さまの子供と、貧乏な家に生まれた子供では扱いが違います。
例えばチャールズ皇太子がどんなに悪い事をしても、彼は生きて、それなりの生活をして行く事が可能でしょう。
このような生まれの違いを、親のせい、社会のせいにしたとしても、本人にとってみればどうでしょうか。
「なぜ、こんなところに生まれたのだろう?」、と思ってしまうわけです。
このように、生まれた場所の違い、境遇の違いといったものがカルマと言えます。
いくら頑張ってもそれは治りません。
例えば、身長2メートルになりたい、と、どんなに願ってもなれるでしょうか。
これは変えられないカルマの部分を表しています。
しかし一方で、カルマは行いという意味であり、私のカルマは私のこれからの行いで未来の事を変えることができる部分があります。
これを「プルシャルタ=頑張る事」といいます。
次の人生(来世)を変える事ができます。
そして、この人生では悟りが開けます。
悟りを開いたら神様になります。
そうすれば全世界のものが私になるでしょう。
bahunam janmanam ante =たくさん 生まれ変わった あと、という意味です。
bahu とは「3つ以上、たくさん」という意味です。
jnana van = 知識を持っている人、という意味です。
mam = 私に、という意味です。
この場合の「私」とは、自分の中にいるアートマのことです。
私達は今の人生が最後と思えば最後になります。
いつでも、これが最後と思って、勉強することです。
vasudevah とはクリシュナ(全ての生き物の中にいるもの)のことです。
MTさんの質問・「デーヴァとは神様のことですよね?」
パンダ先生・「デーヴァとは輝く事、という意味です。私達のマナスがどこへ向かい、光っているのかはそれぞれ違います。」
