おはようございます(╹◡╹)
ニーチェはこう言った。
『事実などは、なにもない。
あるのは解釈だけだ。
(There are no facts,
only interpretations.)』と。
そう、解釈だけ。
個々各々の解釈の分だけ
その事象が起きた意味は存在する
そして時間を問わない。
私というものがどう解釈するのか
私ではないものはどう解釈するのか
•••私ではないものとは、一体何を指すのか
•••過去の『私』は、私なんだろうか。
•••はっ、私の変な寄り道癖が•••(๑・̑◡・̑๑)
なるほど分岐点は、視点か、と
当時の私は思った。
『私』にとっての視点による、解釈
『あなた』からの視点による、解釈
その事象は私にどんな影響があるのか、によって解釈は変わる。『嬉しい事象が起きた』A
『あなた』はあなた自身にどんな影響があるのかによって、『最悪な事象が起きた』B
もし私が『自分への影響』だけでなく、
『あなたへの影響』もあなたの温度で想像ができる時、なされる解釈は"Aでもあり一方ではBでも"ある、となる。
途端に私とあなたはそれぞれの時よりも目の前の事象からの選択肢が広がる。
良し悪し問わず、事象のなす意味は広がる。
嬉しいときは1人だけ喜びにくくなるか、
横にいる不幸な人を認識し、もっと喜ぶ人もいるかも知れない。
最悪なとき、なぜ自分だけ最悪なんだとより悔しい人もいるかもしれないが、
嬉しい結果になった人もいるならそんなに悪い結果でもなかったのか、と消化できる人もいるかもしれない。
愛の可能性も広がり、
憎悪の可能性も広がるかもしれない
世界中で、世界中が、
ただ"隣の人"を愛せたなら•••
ニーチェの、一見淡白に思えた言葉の中に
ニーチェの深い愛を感じた私は
自分の中にこのことばが刻まれた理由を感じる。
さて
朝から長風呂曜日。
トリートメントが、そういえば昨夜切れた。
『私』が今日一日髪がバキバキなだけで、
一方で平穏な日常の人も多いだろうと願い泣
ごきげんな1日の始まりだと解釈することにしてみる。