大阪・住吉の旅、続き~
それは、
北畠顕家(きたばたけ あきいえ)の戦没地👻
顕家というのは、ま、言わなくても、だいたい察しはつくと思うけど(笑)、
南朝に尽くした公卿で武将でありまして、
以前ブログにも書いた、阿倍野神社のご祭神であーる。
北畠顕家 又の名を 花将軍
顕家のお墓は、阿倍野にもあり、そちらには行ったことがあるんだけど、
実際亡くなられた場所は、堺市の石津だそう。
ちょうど住吉大社から、阪堺線で一本らしいし、手を合わせに行くことに。
でもその前に、まずは、ちょっとだけ、顕家のことをまとめてみたい
北畠顕家 (1318~1338)
後醍醐天皇の賢臣・北畠親房の長子。
16才で、義良親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥へ下向、
優れた政治的手腕を発揮して、東北地方をおさめられた。
公家でありながら、当時の名だたる武将らと互角に渡り合う軍略的才能を持ち、
度重なる尊氏の挙兵による内乱鎮圧のため、各地を転戦する半生を送った。
1336年、離反した足利尊氏(北朝)討伐のため上洛、楠木正成らと共に、尊氏を九州へ敗走させる。
このとき、顕家の軍は、さまざまな妨害を打ち払いながら、東北より近江まで、破竹の勢いで南下した。
進撃の早さで思い出すのは、羽柴秀吉の中国大返しだが、
この時の顕家の進軍は、秀吉のそれを上回る、まさに神速の進撃だったという。
そんな顕家が、最期を迎えたのが、ここ、石津。
太陽橋なる橋を越えたらすぐ。赤い旗が立っていて、すぐにわかった。
あっきー、来たよ
こじんまりしたお墓は、きれいにお掃除されていて、ちゃんとお手水もあった。
部下の南部師行(なんぶ もろゆき)の名前も、共にある。
師行という人は、阿倍野神社にも祀られていたはず。
確か、顕家の討死を知って、猛然と敵陣に斬り込んで行ったんじゃなかったか…
💠南無妙法蓮華経💠
風に髪をなびかせているようなこの字体、
凛々しく颯爽と立つ、顕家のイメージにピッタリに思えたなあ。
「奮戦地」の言葉から、わたしには、彼への愛情が、とてもとても感じられた。
高師直(こうのもろなお)軍18000。顕家軍3000。
ほんとうに「奮戦」だ。
劣性に立たされながら、それでもなお、天皇のおられる吉野に戻ろうと、決死の戦いを続けた顕家。
彼の激闘は、幾度となく北朝軍に大打撃を与えたが、
東北からの長征と、連戦の疲れは大きく、
手勢わずかとなったところを、ここ石津にて包囲された。
享年21歳。
最期の戦いに赴く前、彼はしたためた「北畠顕家上奏文」の中で、
後醍醐天皇の政治の矛盾と問題を、厳しく指摘している。
後の世のため、自分に出来る最後の仕事。
そう思い定めた顕家の命がけの問いを、後醍醐天皇は、どんな思いで受け止めたんだろう。
楠木正成も、北畠顕家も失った南朝は、この後、急速に勢力を失っていく。
掃除用具などが入っているとおぼしきロッカーに、「北畠顕家保存会」と書いてあるのが目に入った。
顕家を忘れない人たちが、ここにもいるのだ








