いちおう前回の続きです。


住吉大社の裏手に、正成ゆかりの寺がある。

宗派は信貴山真言宗で、鎌倉幕府を崩壊へと導いた千早城の合戦の折、正成が、念持仏としてそばに置いたと伝わる毘沙門天を本尊としている。

東福寺という。

先に住吉大社の裏手と書いたが、南海電車東住吉駅のそば、といった方が近い。


楠木正成といえば、討幕の立役者だ。

後醍醐天皇の呼びかけに、いち早く呼応して、河内金剛山に立て籠り、わずかな軍勢で、幕府軍を手玉に取って、討幕戦をリードした。


その正成を後醍醐に引き合わせたのは、文観だとの説がある。

両者の関係を示す直接の資料はないが、正成の本拠地である河内の寺社には、律僧としての文観の活動が及んでいたというし、

幼い頃、寺で学んだ正成は、自身、優れて仏教的な素養・教養を身に付けた人物でもあった。

(当時のお寺は、最新の学問を学ぶところでもあります)


もっとも、河内で活動する律僧は文観に限ったことではない。

正成との関係を取りざたされる僧・道佑もまた、文観の弟子として、後醍醐との繋がりを持っている。

他、百花繚乱の説が花開く一方で、正成を見出だし、後醍醐と引き合わせた「who」の確証は、今もって、ない。


けれども楠木正成というのは、後醍醐天皇をして、

「誰よりも頼みにしている」

と、深く惚れ込ませた人物。召し出された正成の方でも、

「帝の身に危難あらば、この身に代えてもお守りする所存」

と、河内の館を堅牢にして、後醍醐を迎え入れる準備を固めていたというから、この人物の気概と自負、そして生一本の真面目さは、いかばかりであったか。

「決めたら引かぬ」

要するにそういう男である。(グラサンどういう男だよ)

参陣の説得にあたったのが、相応の人物であることは、想像に難くない。


文観は、後醍醐を魅了した巨大な知性であった。また、のちの後醍醐の政治的敗北を見限らず、それに殉ずるがごとく、天皇と共に吉野へと赴いた心篤き男でもあった。


文観と正成。

わたしは二人の会話を描いてみずにはいられない。

並ぶ者なき法験力で、時の天皇の護持僧にまでのぼりつめた文観。

神仏をも動かすというその高僧の言葉には、聞くものの心を惹き付けてやまない、呪術的な力がみちみちていただろう。


濁世末代。

天変地異が頻発し、干魃と流行り病で、都には死の匂いがたちこのめていた。

僧兵や悪党どもの反乱は引きも切らず、収束に乗り出すべき幕府は、内部抗争に明け暮れて、世をただす力も信用も、すでにうしなっている。

誰かが起つしかない。

…………


静かに語られる変革ヘの期待は、正成の中の秘めたる熱情にそっと火をつけた。

正成は、寺に籠り、野を跋渉し、時に激しく馬を駆けさせながら、昼も夜も、ひとりきびしく自分の心を問い質したにちがいない。

すでに若くはない正成が、いや、若くはないからこその思慮をもって、人生最後の大きな賭けに出る。

その決断の瞬間を思う時、わたしの胸は激しくふるえ、ほとんど泣いてしまいそうになるのである。




~今日のどーでもいいメモ~

巷に怪僧のイメージで語られる文観ですが、最近は、碵学の僧としての再評価が進んでいるそうです。歴史には、それを語る人のいろんな思惑がからんでいて、何が本当かはわからないけど、「ホントのこと探し」じゃないそここそが、歴史のたのしいところですね🎵


今日も読んで下さってありがとうございますうさぎクッキー