住吉大社の近くに、荘厳浄土寺というお寺がある。
後村上天皇が、父・後醍醐天皇の追善法要を営んだという南朝の祈願寺で、
その政権末期、熱心に法華経の法会を催していたことでも知られている。
皇室ゆかりとの看板から、てっきり天台宗か真言宗かと思いきや、宗派は真言律宗で、西大寺の末寺にあたるらしい。
へえ!何度も来ているのに、初めて知った!
律宗と聞いてぼんやりと思い出すのは、南朝と関係が深かった僧、文観(もんかん)のこと。
後醍醐天皇の護持僧となり、その政権下で、真言密教界の頂点に立った人だ。
天皇のそばに寝起きしながら、日々、帝にふりかかる邪を祓い、玉体の安寧を祈る、呪力に優れた高僧のことを護持僧というが、
通常、天台・真言宗の僧が務めるこの任に、西大寺出身の律僧としてあたったのが、文観だった。
もっとも、彼は醍醐寺で伝法灌頂を受けた真言僧でもあり、
「法験無双」
そう恐れられるほど、申し分ない祈祷の力を身に付けてもいた。
けれども原点はあくまで「律」、すなわち戒律を尊び、貧しきを救う、律僧としての立場にあって、護持僧として召し出された後も、その活動を捨てることはなかったといわれる。
律僧というのがどういう存在か、詳しいことはよく知らない。
が、「非人」と呼ばれる最底辺の人々への支援救済を通して、法を説き、信仰を広めていった僧だというから、言うなれば辻の聖のイメージだろうか。
律宗教団は、僧位・僧官(朝廷が与える僧侶の官位のこと)を持たなかった。
つまり、地位という世俗的なしがらみから自由であったから、どことも癒着のないクリーンな立場で、当時の厳しい身分社会においても、上下の貴賤を問わない幅広い活動の場を獲得することが出来たといわれる。
そうした律僧の強みは、やはり人脈の広さだったろう。
宮廷から吹きだまりまで、何しろどこにでも出入りできるのである。
文観は、その高い呪験力により、後醍醐天皇に召し出され、やがて鎌倉幕府調伏(打倒)の祈祷を行った罪で捕らえられた。
しかし、彼に期されたほんとうの役割は、律僧ゆえの人脈力で、後醍醐の宮廷に、討幕を支える地下軍事勢力を引き入れることだったろう。
地下軍事勢力。
本来なら、身分の低さゆえ、絶対に天皇と出会えるはずのない「いやしき」地下(じげ)の武士たち。
その代表格が、楠木正成だった。
~つづく~
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