(1月末の参拝を思い出して書いています。1月って…いつの話だよ💦)
住吉大社は、後醍醐天皇に始まる南朝3代天皇との縁が深い。
鎌倉幕府を討つ前のみならず、敗けが込んで追いつめられても、社家は、南朝ヘの支援を惜しまなかった。
「太平記」の中には、後醍醐の比叡山行幸に同行した津守国夏(住吉大社神主)が歌を詠む場面が描かれているし、
大社の正印殿に、後村上天皇を迎えるための行宮(天皇の仮の住まい・住吉行宮)を作ったのも、国夏だった。
この日は新年度初めての参拝であったので、住吉行宮(すみよしあんぐう)にも挨拶に行った。行ったところで門扉は閉じられ、外から一礼して帰るだけなのだけど、
幼い頃から後醍醐天皇の皇子として各地を転戦し、ご苦労の多かった後村上天皇が、その生涯を閉じられたのが、住吉行宮。
この時代に思い入れ深いわたしとしては、時々訪ねたくなる場所なのだ。
行宮は、境内外社の浅沢社、大歳社をぬけた住宅地の中にあるのだが、角を曲がって正面に行宮をみとめた時、
「あっっっ!」
わたしは思わず変な声が出るほど驚いた。
いつもは閉まっている門扉が開いているではないか!
お正月だからか、それとも、しばらく来ない間に常時解放することに決まったのか、
いや、まさか閉め忘れということはないだろうが、これまで何度も来た中で、この史跡が解放されているなんて、初めてのことなのである。
行宮、といっても、中央に大きな石碑があるだけの、実質、空き地だ。
なんにもない。
住宅に挟まれたその跡地は、仮とはいえ、ここが帝の住まいだったとは思いたくない狭さにまで、見る影もなく縮小されている。
けれども、そろり、そろり、足を踏み入れると、自分でも思いがけないぐらいの熱くて切ない気持ちが、胸をぎゅっと揺さぶった。
宮の土を踏む。
それはこんなにも心ふるわせることなのか。
ならば楠木正成や正行や……700年前、じっさいに天皇に召し出された人たちは、どんなにか、心を翻弄されたことだろう。
わたしは、正成の胸の脈動を思った。
「選ばれてあることの恍惚と不安。」
そう詠った仏蘭西の詩人がいたけれど、
天皇ヘの拝謁とは、恍惚も不安も、誇らしさもおののきも……およそ湧出する思いのすべてを呑み込んで、抗いがたい呪縛に絡めとられるような、はげしくも恐ろしい体験だったにちがいない。
後醍醐の召し出しに肯じたとき、正成は既に命を棄てていたのではないか、と思う。
天皇のために、ではない。自らの宿命のためにだ。
自分など、もはやあってないものと、彼は天に命運のすべてを預け、宿命の命ずるところに従って、己を燃し尽くそうとした。
大死大活。
死んだつもりで生きること。
名誉だカネだ、世俗の成功を気にする、ちゃちな自分は、もはや死んで「いない」のだから、残った自分とは、真の自分、その人をその人たらしめている魂そのものだ。
不滅である魂にとって、生きるの死ぬのは関係ない。その目的は、ただ己を生き尽くさせること。「いざ!」
およそ歴史に名を残した人というのは、皆、自らの魂に召し出された人々なのかもしれない。なすべき事がなされれば、それでよい。
正成の最期の五年は、そのようなものだったとわたしには思える。
いつの間に降りだしたのか、小雪がちらついている。
わたしは、行宮(あんぐう)で手を合わせながら、自らの宿命に忠実であった人びとを思った。
そして、宿命に呪われたかのような後村上天皇の一生に、祈りを手向けた。
幼きより、父帝の手足となり、その遺命に殉じていった後村上の生涯の数多の苦難は、
後醍醐という強烈な個性を放つ天皇の子、として生まれたことによって、決定したというにも等しい。
けれども考えてみれば、宿命と共に生まれて来たのは、何も後村上に限ったことではあるまい。
なぜ自分は、他でもないこの自分だったのだろうか。
時々わたしは、そんな思いにとらわれるが、自分が自分である、ということ、これ以上の宿命が、一体どこにあるだろう。
凡庸であろうと、才知に長けていようと、置かれた境涯がどうあろうと、
それぞれがそれぞれの自分を生きることに於いて、人は皆、ひとり残らず同じなのではないか。
わたしは近ごろ、そんなふうに思えてならない。至極当たり前のことだけれど……。
今日も、読んでいただきありがとうございました![]()
注。楠木正成が、後醍醐天皇に召されたのは、この行宮ではありません。&大死大活は、「大死一番、大活現成」です。どーでもよいけど(笑)