湊川神社に行ってきた。
毎月25日は、通常ならば月次祭なのだけど、コロナで祭典の一般参列はもう出来ないらしい。
残念なこととはいえ、このご時世、参拝出来るだけで、ありがたい、とも思う。
来月、どうなっているかも全く見えないし、ひょっとすると、自分が死んでいるかもしれない。(
たぶん生きておるが
いくぶん心細い気持ちもあり、約ひとつきぶりに、正成公をお参りしてきた。
✨湊川神社✨ 楠木一門が勢揃い💘
着いたら、神職さんらが白い作務衣姿で境内の掃除に励んでおられ、皆さん一様に、「おはようございまーす」と、元気に挨拶してくださるのが、清々しい。
こういう大変な時は、何となく沈鬱な顔をしていないといけないのかなと、
読めない空気を勝手に読んで、疲れてしまうことが、わたしにはままあるのだけれど、
人にそれぞれの思いがあるのは当たり前であって、問うべきは、声の大きい人や怖い人の顔色を、つい伺ってしまう自分の在り方だったなと、思い出した。
他人を気にして自分を不自由にしているのは、どこまでも自分なのだった。
未曾有の災禍で世界は大きく変わったように見えるし、たしかにその通りには違いないけれど、
わたしたちはやっぱり、自分の人生を、置かれた場所で、ただ懸命に生きるほかなく、
その意味で、人間の仕事は、実はこれまでと、何一つ変わっていないのだよね。
疫病、戦争、平和、飢饉……外側の状況は、いくらでも変わる。
でも、人がどう生きるかと、外界の状況とは、ほんとうは関係ないのだった。
ひどい環境のなかでも、素晴らしい人は素晴らしいし、恵まれた環境にあっても、愚劣な人の人生は、やっぱり愚劣なものだろう。
(
当たり前
コロナじたいをどうこうすることは、人間には(わたしには)出来ないけれども、コロナの中で、いかに善く生きるか、生きようとするか。これは、一人一人に出来ることだ。
しっかりしなくちゃ、と、思った。
そういえば、祭神・楠木正成は、状況にとらわれず、いつ何時も、自分に成しうる最善をつとめた人ではなかったろうか。
湊川の合戦など、まさにその最たるものだろう。
彼は誰のせいにも、何のせいにもせず、自らにのみ依って立ち、ここ湊川を最期に、自分の人生を見事、生き切ったのだ。
彼は湊川で敗れるが、その魂の充実を前に、生きた死んだは、単なる結果でしかないのかもしれない。
人はいずれ死ぬ。
武将たちの壮絶な生涯は、今この新たな「サバイバル」の時世に、いろいろなことを教えてくれるね。何のために、生きるのか。
参拝出来たこと、湊川神社との縁に、心の底から、感謝。
ぐらぐらしていた心を、一気に整えてもらった。正成さん
らぶ。

