建水分(タケミクマリ)神社。
紀元前92年創建。
とにかく気が遠くなるほど古くからご鎮座されていて、祭神は、宇宙創生の神と、四神の水神である。(この前書いてるのでざっと。)
人懐こそうに身を乗り出した大きな狛犬が、気持ちをほころばせてくれるが、神社は、森厳の気を放って、いくらか畏怖の気持ちを起こさせる雰囲気だ。
鳥居をくぐると、一気に別世界。
階段を登った先には、簡素な拝殿と、楠木正成造営の本殿がある。
本殿は、見えないのが残念だが、ここにしかない珍しい作りで、国宝だそうだ。
一般の参拝は拝殿まで。その拝殿というのがまた、猫の額ほどの平地いっぱいに建っているので、お参りにはせせこましい。
が、本殿を山中の見えないところに設けてあるのは、金剛山全域に心を響かせる仕組みだろうか。
目を閉じると、意識はぐんとひろがる。
参拝を済ませ、参道の階段に座らせてもらった。
この参道が、すてきなのだ。
杉木立から降り注ぐさわさわした音が、清らかな水の流れのようにひんやりとして、
黙って風に吹かれていると、からだの芯でまだ燠(おき)のようにくすぶっていた一日の興奮が、少しずつ、鎮められていく。
お母さんみたいな神社さんだな、と思う。
だからだろうか、帰り際、改めて境内を見渡せば、離れたところに立つ、正成の南木神社までもが、水分(みくまり)の母の懐に抱かれ、安らいでいるように見えた。
ああ、そうか。正成は、もともと水分の神の子供だったな。
建水分(タケミクマリ)神社は、楠木氏の氏神。とうに知っていたはずだが、うわべをなぞっているだけだったんだろう、正成がここに祀られている意味がようやく肚に落ちると、言い尽くせぬ思いが、静かに押し寄せた。
正成をこの地に還した後醍醐天皇の細やかな情愛を思った。
わたしはこれまで、後醍醐天皇にあまり良い印象を持っていなかった。
倒幕後の天皇の失政と正成の死を、うまく切り離すことが出来ず、後醍醐と聞くと、愛憎半ばする思いが、どうしても湧いてきてしまうのだ。
特に、湊川の合戦前、正成の軍略的進言を、馬鹿な公家の横やりひとつで退けたことなど、思い出せば悔しくて、お恥ずかしい話だが、からだがふるえることさえあった。
けれども、気がついてみれば、後醍醐もまた、彼の人生を手探りしながら懸命に生きたひとりの人間だったのである。
歴史を知るわたしたちは、失政の行く末や、この後湊川で死ぬ正成の悲運を知っているが、
未来を知らぬ後醍醐に、どうしてそれを知ることが出来ただろうか。
今を生きている人間は、ひとりとして明日を知ることは出来ない。
失態を責めたり、後悔することが出来るのは、結果から振り返った時だけで、ある行為や決断が、どのような結果と結び付くかは、行為した時点では、絶対にわからないのだ。
わたしは後醍醐天皇に、心の底から詫びたいと思った。
そして、正成の死に接した天皇の心の洞(うろ)を、初めて思った。
ひとつ、大切なことを知った。
歴史を思う時、決して、こちら(現在)からあちら(過去)を振り返ってはいけない、ということだ。
彼らを知るには、彼らと同じ方向を向いて、一緒に歩かなければ、何も見えない。
わたしが彼らをどう考えるかではなく、彼らが見たように見、聞いたように聞き、感じたように感じる。わたしが太平記の人々になって、わたしという彼らを生きるのだ。
さてそうなるまで、わたしはどこまで上手に調べ、考えることが出来るだろうか。
史料の中から、どれだけ彼らを甦らせ、親しく交わることが出来るだろうか。
太平記の人々は、皆、自分の人生を力いっぱい生きて死んでいった。
彼らに学び、彼らと生きる。
それはまた、歴史に映った自分を知っていくことに他ならないだろう。
空を見上げ、金剛山を、胸いっぱいに吸い込む。どこからともなく「愛い(うい)」と、伝わってくる。
~おしまい~
南木神社 楠木正成をまつる
長きにわたり、駄文におつきあいいただきました皆様、ありがとうございました



