千早赤阪村は、大阪府唯一の村だという。
一帯の村は、建水分(タケミクマリ)神社の守護だそうで、水分、の文字どおり、水の神さまのおられる土地だ。
いかにも、という感じがする。
こののどかな農村には、清らかな水がよく似合う。
挙兵前、楠木正成は、陸水運を掌握し、自在に物流を動かしていたという。
だからなのか、わたしは彼に、なんとなく、河のイメージを持っている。
河は、大地に張り巡らされた血管のようでもあり、土地と土地とをつなぐネットワークのようでもある。
正成は、さまざまな反幕勢力と、地中で広く連携していた。
彼の名が、初めて公的文書に現れるのは、1331年春。
有名な下赤坂城の戦いの、半年ほど前である。
他の勢力が、大小さまざまな蜂起を繰り返す時勢にあって、彼はここまで、表立った動きはしていない。
なので、外側から見れば、まさに突然の軍事行動、ということになるが、
実際には、情報を集め、時と流れを読みながら、眈々と、雌伏を続けていたのだろう。
綿密緻密に事を運ぶ慎重さと、底の抜けたような大胆さ。鬼神のように、非情で不敵な采配。
想像するだけで、そのスケール感に、目がまわりそうになる。
ところでわたしは、倒幕の命を受けた正成が、初めて後醍醐天皇の御前に参上する、太平記の場面が好きだ。
思うところを述べよと促す天皇に、正成は昂然と、こう言ってのけるのである。
「もはや末期とはいえ、幕府の力はまだ強く、そうやすやすとは倒れますまい。
一時の勝ち負けあるのは、戦の習い。時に敗退を喫することもありましょう。
しかし、ご案じなされますな。
この正成が生きている限り、帝のご聖運、必ずや開いてご覧にいれます。
正成、決して負けはいたしませぬ」
この話を読んで、真っ先に思い出したのは、初めて湊川神社に行った日の事だ。
その時わたしは、祭神・楠木正成の事を何も知らなかったが
あの日の神社で触れたものも、こんな頼もしい、天駆けるようなエネルギーだったなと
たちまち、半年前の電撃的な出会いの記憶がよみがえったのだ。
太平記は、南朝寄りの書物であって、特に楠木正成を英雄化した「お話」であるとは、よく言われることだ。
資料としての信頼性は低い、と。べつに異論はない。
ただ、人から一顧だにされぬ人間に、偉大な伝承が生まれることはあり得ず、
口伝えに伝わる「お話」は、彼自身が、英雄視されるような、思わず憧れずにいられないような魅力的な人物だったという、ひとつの事実を示していると、わたしには思える。
そこには、史実としての正しさとは、全く別の正しさがある。
誰が何年に何をした、という史実上の知識は、人間を伝えない。
歴史上の人物は、人々の愛情によって、後世に伝えられるのだ。
楠木正成は、戦前まで、長らく日本人の憧れの人物だったという。
あの時、湊川神社で出会ったのも、太平記の昔から、人々が楠木正成に抱いて来た、ひとつのイメージだったのかもしれない。
そんな見えない想いに見事に「あたって」、わたしもまた、あの日から、正成を慕う歴史の列に、加わったのだった。
さて、そうした顕彰を始めたのが後醍醐天皇である……というと、語弊はあるが、亡くなった正成を最初に祀ったのは、後醍醐だ。
それが、これから行くタケミクマリ神社の境内社、南木神社で、楠木正成を祀る最古の神社である。



