本丸に登ると、素晴らしい眺望に、息を呑む。








太平記の中で、上赤坂の城は、三方を峻厳な崖に囲まれ、南の一方が、わずかばかり開けた場所にある、と説明される。
ならば、ここがその南ということになるのだろうか。
今までいた薄暗い山中とは、まるで別世界の清々しい眺めだ。
ホッと一息。
いつまでも動きたくない気もするが、気をとりなおして、本丸を歩いた。
城郭は残っていないものの、ぐるっとまわれば、そんなに大きな城でなかったことは、見当がつく。
とはいえ山だ。
こんなところにどうやって城を築いたのだろう。
登った体感として、そう高いところまで来たとは思わないが、
それでも、平地に建てるのとは、かかる労力は、格段に違う。
どんな城が建っていたのか、気になって、ポケットの太平記を読み、ビックリした。
堀に城柵を立て掛け、木の櫓(やぐら)をかき並べただけ、というのだ。
私たちが、城と聞いて思い浮かべる、あの壮麗な姿とは、ぜんぜん違う。
そんなもので大丈夫だったのだろうか。
しかし調べてみると、山城というのは、そもそもそのような簡素なもので
我々に馴染み深い天守閣のある城は、織田信長の安土城まで登場しないそうである。
つまり、南北朝時代の城とは、権力の象徴としての居城でなく、戦のための一拠点だったのだ。
楠木正成も、倒幕にあたり、金剛山のあちこちに、小さな城郭を築き、山全体を要塞化していたという。
そして、構えた城に幕府軍を引き付けては撹乱する陽動作戦と、奇襲攻撃を繰り返し、次第次第に鎌倉幕府の軍勢を疲弊させていった。
ふと、いつか見た歴史ドラマで、得意顔の信長が、天守閣に登って、しもじもの者に眼下の風景を見せる場面を思い出した。
それならあれは、信長が新しい世を開いたことを、城を使って象徴的に語ったシーン、ということになるのだろうか。
山城は、南北朝時代や戦国時代のような、戦が常態化していた時代に広がった。
戦のための城から、権力の象徴としての城へ。
城の変化は、時代の変化を映していたのかと、わたしはひとり、うなづき感動したのだった。
本丸周辺
しかし織田信長を対置すると、正成のいた南北朝時代が、一気に古式蒼然と見えてくるから、妙なものだ。
700年も前だから、大昔なのは、言わずもがなではある。
が、想像以上に心もとない簡素な設備や武器を使って、彼らは日々、技を研き、知恵を駆使して戦っていたのだ。
何か、祈りたいような気持ちになった。
上赤坂城の本丸には、いかな怪力・俊敏な身のこなしの者でも、やすやすとは近づけなかった
太平記はそう言うが、所詮、あるのは木の櫓(やぐら)だ。火をかけられたら、ひとたまりもない。
本丸には、一歩も入れない。近づかせない。
兵たちの覚悟には、相当のものがあったのだろうな、と思う。
だからこそ、あの異様な山の仕掛けなのだろう。
山城。すなわち山それ自体が、巨大な防御システムを成す、山の「城」である。
しかし、幕府軍の猛攻を退け続けた上赤坂の城も、ついには炎上するのではなかったか。
初めて歩いた山城の興奮は、歴史を忘れさせたが、ここ上赤坂城の戦いは、楠木側の敗北に終わる。
不意に、切ないような、祈るような気持ちがして、わたしは目を閉じた。
本丸周辺
~つづく~




