住吉大社に行ってきた。
















どうやら毎月行っているらしい
と言っても、まだ連続記録3回目だから、たいした話でもないのだけれど(笑)
長年(?)「ふーん。」だったこちらの神社と、今年に入って、よくわからぬ急接近をし、行く度に、大感動
を味わっているのだ。
私的には、不思議で仕方ない
今回も、駅を出て、住吉大社が見えた瞬間、太鼓橋が、まるで瞬間移動してきたみたいに目の前にあって
ホントに目の前にあったのよ。あるわけないのに(笑)
うわあ、住吉さんに来た~‼
って、嬉しくて鳥肌がたった
境内の木も、風も、社殿も、何もかもがキラキラ輝いて、大きな命が躍動しているように見えた。
喜びが世界を薔薇色に見せているのだとしても、そんなしあわせな勘違いなら、大歓迎。
油断して生きようと思う。春だもの。
住吉大社を出て、正成毘沙門天(東福寺)へ向かう
屋根の上で、こんな方が、がんばっているのを発見。
道端で、満開のお花を見て、同じ花のつぼみがお寺にあったのを思い出す。
見頃かも
とワクワクして尋ねたら
散った後だった。
がーん。
この日は、お墓参りの家族連れがいっぱいだったので、早めに切り上げ、住吉大社に戻る。
住吉大社には、大木がたくさんある。
人間が、たかだか100年なら、彼らは、うまくすると、1000年、2000年と生きているわけで
そういう場所にいると、命とか時間とかいうのは、一体何なのだろうと、
いつも見ている世界の向こう側に、うっかり落ち込みそうになる。
生まれも死にもしない。したがって時間もない世界。
けれどもやっぱり、わたしも木も、生まれ、死ぬわけで。
色即是空 空即是色
昔、初めて聞いた時、どんなに考えても、訳がわからないと思ったけれど、
同時に存在している「この世」と「あの世」を、お釈迦様は、如実に観じていたのじゃないだろうか。
「あの世」というと、つい、死者や天使や神様を思い浮かべるけれども、彼らは、むしろ「この世」の存在だ。
この世のわたしによって、そうと指される天使や神が、あの世のものであるはずがない。
これをこれと呼び、あれをあれと指す、そうした規定じたいが、この世の行為なんである。
ただ感じる。それでいいのだと思う。
感じるという静かな行為そのものに、大いなる叡知との交歓はあり、
そのときわたしたちは、あれもこれもなく、ひとつに溶け合いながら、見えない世界に還っている。






