今月もまた、四條畷に来れたことに感謝
















まずは、駅にある、楠木正行(まさつら)像を見、正行さんの従兄、和田賢秀(けんしゅう)さんのお墓参りに行く
👻和田賢秀墓👻
この日はポカポカ陽気。お墓も、明るい陽射しを受けて爽やかに輝いていた。
さて、四條畷神社に着くと、ご祈祷の準備がされていた。
すぐにお宮参りのご家族が来られたので、そっとお相伴にあずかる。
なんだか一気に幸せな気分
お宮参りって、産まれた子供を初めて神様にお披露目する日なわけで
「四條畷の大神の大前に……」
という神主さんの祝詞の一節が聞こえた時、
このしあわせな場面に居合わせることが出来た喜びで、胸がきゅんとなった
それは、正行さんたち楠木家の面々が、「神様」として祈りを受ける場面なのだ。
この共有が、わたしには、ことのほか嬉しかった。
しばらく祝詞を聞かせてもらって、その後はベンチに座って風に吹かれる。
目の前には、陽の光を受けて輝く、艶やかな社殿がある。
きれいだなあ
夢見心地で眺めていたら、突然、ハッとなった。
「四條畷神社」、この神社の存在が、そのまま、楠木家の語り部であることに、気がついたのだ。
正行さんや賢秀さん、そして楠木家の人々……彼らは、確かに生きていた。
いたから、この神社が、ある!
そんな当たり前の事実に、息も止まりそうに驚いた時、
わたしは、生死も時間もない「存在」の掴みがたい気配のなかで、もはや誰でもない彼らが「いる」ということの不思議を静かに感じていた。
(うまく書けない
楠木正成も、正行も、ただ、生きて死んだというだけの、ひとりの人間だ。
でも、そんな変哲ない人たちが、「いた」(いる)ということが、700年後のわたしを、こんなにも狂喜させ、安心させ、感動させるのか。
終始無言だったけど、抱えきれないほど多くのことを語らった気がする。
いや、存在との語らいとは、いつも無言のうちに交わされるものではないか。
すべてが瞬時に了解されるその対話は、言葉を超えている。
今日もたくさん泣いたなあ。
風が絵馬に触れながら、カラカラと高い音を鳴らして通っていく。
溢れてくるものは、いつしか、ありがとうだけになっていた。
わたしはしあわせだ。
書くのが、ほんっとうにむずかしい体験だった
読んでいただきありがとうございました



