続きなので、いちおう前回の内容、まとめておくね。


楽しみにしていた源九郎稲荷の例祭の朝、運悪く来てしまった生理。巷に聞く、生理中の参拝NG説におびえつつ、その真偽を確かめるためにも参加を決める。結果、何事もなく例祭は終了。帰途、生理であることを忘れて立ち寄った薬園八幡で、偶然にも、本殿に上げてもらえる幸運に遭遇するが、それなら、あの生理中の参拝NG説は何だったのか、ちゃまは複雑な気分に…


源九郎さんのお神輿




もはや都市伝説のような、参拝自粛の考えには、従う必要なんかない!とは思うものの、


逆にあからさまに「その通り!」と、手放しで賛同されるかのような現象(ご本殿に上げてもらったこと)を見せられると、


むしろ今まで自分を縛っていた考えの味方をしてやりたいような、妙な気持ちが沸いてきました。



じゃあ、今まで信じてたことは、何だったんだ?


生理中の参拝は、神さまにガマンさせることになるんじゃなかったの?


神さまは怒らなくても、眷属が怒るんじゃなかったの?


眷属は、神さまに非礼を働きながら、平気な顔をしている人間に、罰を与えるんじゃなかったの?


生理であることを忘れて、図々しくもご本殿にまで上がり込んだちゃま、完全に、非礼を働いていますが、生理の自覚がなかったので許してもらえたのですか?



ていうか、ほんとうにダメなものなら、なぜわざわざ本殿に上げてくれたのさ?



薬園八幡には、神さまも、眷属も、いないのか?←な、何て事を‼滝汗



ええええええええ?わからない~🌀


本当は、生理中の参拝、良いのか悪いのか、どっちだよう~えーん






頭をぐるぐるさせることしばし。ちゃまはハッとしました。



生理中の参拝が良いか悪いか、どんなに考えてもわからないのは、当たり前なんです。


だって、良いも悪いも「ない」からです。



善悪・正誤は、人間の価値観であって、



あるがままの世界には、善悪や正誤はもちろん、美も醜も聖も俗も高いも低いも…何もない。



だから、是か非か、という問い自体が、成立しません。


問われている是や非が、そもそも「ない」からです。


結局、あれはいいとか、これはダメとか言っているとき、神さまの世界を見ているつもりが、人間の考えの範疇を、全く出ていない、ということではないかと、ちゃまには思えました。



なんだか笑えてきました。ばかばかしいというかなんというか



神さまや眷属が怒るという、生理に限らずよく聞く話も、そう考えると、ないよな、と思えてきたんです。(ちゃまの勝手な考えです。他の人の世界を、非難、否定するつもりはないので、誤解しないでねうさぎクッキー)




罰を与える、怒る、ということは、神さまが、人間と同じように、特定の善悪や、価値観を持っていることになるでしょう?



もし神さま(眷属でもよいが)が、自らの善悪に基づいて、罰を与えてしまったら、人間は、自分で考える事をしなくなるのではないだろうか。



罰(怒り)を恐れ、罰(怒り)を避け、神さまのおめがねに叶うふるまいだけをしている人間…



そんな人間を作ることが、神さまの望みだとは、ちゃまには、思えませんでした。



そもそも、罰や恐れを使ってでも、他人を意のままにしようとするのは、人間だけで、神さまに、人を縛る理由なんか、ないのよね。




神さまを、自分の自由を制限するために使うのは、もう絶対にやめよう、と思いました。



神さまがダメと言うから、神さまが怒るから、神さまがいやがるから、やめる、自分の意思をくじく。



そんなふうに、考えなしに自分を譲り渡すことが、ほんとうに神さまの望みなのかどうか。



そもそも、そこにいるのは神さまではなくて、いつも誰かの言いなりになってきた自分でしかないのではないか?



強い相手を前に、小さくなっていたら許される。波風たたなくてすむ。



これまでの人生で作り上げてきた、こズルい処世術を、神さまを相手にまで続けようとしてきた自分を、ちゃまは発見しました。



そう。神さま神さまと言いながら、ちゃまが見ていたのは、神さまという巨大な鏡に映した自分だったんです。



~つづく~
長くなったから、また明日。なんか、思ってたのと全然違う方に、話が進んじゃったよてへぺろ

先にいちおう書いておくと、言いたかったのは、答えじたいが「ない」のだから、とにかくその都度、自分で一生懸命考えるしかないってことね。←当ブログは、サービス良好店です(笑)
あー。文章むずかしー🌀

今日も読んでくれてありがとううさぎクッキー
みんなにいいことありますように。