今日も来てくれてありがとう
早速、続きですよ~
ほんとうに、眷属さんがいるのかどうか、自分で確かめよう!
……とは思ったものの、どうやって確かめればいいのか、見当もつきませんでした。
きつねさんは、見えない存在です。
そして、ちゃまには、見えないものを見る力はないのでした。
まさか、そんな大事なことまで忘れていたのか…
自分専属のキツネさんなら、気配ぐらいは知らせてくれるだろうと、淡い期待を抱いていましたが、
考える間でもなく、彼らは、自分の存在をアピールしたくて、人間につくわけではありません
もし、ほんとうに眷属さんが来てくれていたとしても、
ちゃまがわかろうが、わかるまいが、彼は、淡々と自分の仕事をするだけでした。
(なんか、カッコいいな。しかし、ちゃまにつくということは、ただ暇に耐える修行をしに来るようにしか、思えないのだが…
)
友人となったあの女性は、見えなくてもいるのだから、いつもありがとうって、大切に思っていればいい✨、と教えてくれましたが、
眷属という、どういうものか、見当もつかない存在に、どんな気持ちを向ければいいのか、ちゃまにはやっぱり、わかりませんでした
最初の頃は、それでも、明るい気持ちで、いなり寿司を作って、歓迎ムードをかもし出してみたりしていたけれど、
どうがんばっても、気配すらわからず、いるとも思えないものを、
「いることにし続ける」
のは、空々しく、いろいろが、あっという間に行き詰まってしまいました


←当たり前やろ
今現在の、ちゃまの考えを書いておくと、
眷属さんは、いるともいないとも、思っていません
いるかいないかわからない。でも、いるか、いないか、わからないということは、わかっている。
………て、なんやねん、その話は
うまく説明する自信はないのだけど、例えば、
神さまでも、キツネさんでも、話しかけたり、考えたり、そのことで悩んだりするのは、「いる」と思っているから、そうするわけでしょう?
いないものに対して、話しかけたり、考えたり、悩んだりすることは、出来ません。
だから、話しかけたり、考えたりたり、悩んだり出来るということは、そう出来る対象が「いる」ということになる。
でも、それと、自分には源九郎稲荷神社の眷属さんがついているって言うのとは、話が違うよね。
この2つの「いる」は、同じ「いる」でも、種類が違うんだってことまでは、ぼんやりとわかったの。
でね、
ひとつ目の「いる」に、より意識を強めていくことによって、心の中に、キツネさんと暮らしていくスペースは作れる。
だけど、2つ目の「いる」は、「わかる」能力だから、自力で、どうこうするのは無理で、いるかいないか、ほんとうに確かめたければ、気長に、わかる時が来るのを待つしかないのでした。
要は、わかるためには
時間がかかる、という当たり前のことがわかったの
いる、にせよ、いない、にせよ、それが自然に納得出来るカタチで肚に落ちるまで、事の全貌が明らかになるのを、待つ。
出来ることは、それしかない、と。
最初の頃は、不安のカモフラージュで、鼻息が荒かったから、とにかく、「本当にいるのか、いないのか」、一生懸命、そこに決着をつけようとしていました。
いるのか、いないのか、どっちかしかない。
わかるとは、いるか、いないかが、わかることだ!
と、真偽を取り締まる人みたいに、目を吊り上げて。
だから、わからない、ということが、とても苦しかったし、気持ちが悪かった
でも、あるとき、わからないことは、わからなくていいんだ、と思ったんです。
そのことに気づかせてくれたのも、やっぱり神さまでした。
~つづく~
長いのに、読んでくれてありがとう
