東京に出張した。

 

新大阪7時発の便に、
遠足気分で意気揚揚いきようようと乗り込んだところ
目に飛び込んできた光景に驚愕きょうがくした。

中央の席を除くとほぼ埋まっている。

あぁ、こんな平日の新幹線、
いったいいつぶりであろうか。

世の中は、正確にいうと新型コロナのパンデミックは収束していない。
だが、実態として社会の自粛ムードはすでに解けており、アフターコロナの社会が確かにいま、動き始めたのだ。

 

 通路側を予約していたボクの隣の席には・・・

すでに白髪パーマのこじゃれたカネ持ち風のお婆さんが座っていた。

 

ボクは、脊髄反射的せきずいはんしゃてき
‘’はじめましてよろしくね‘’のてい
婆さんにペコリと一礼して自席に座ると、パソコンを取り出して黙々もくもくと届いていたメールの返信を始めた。

 

しばらく経ってから。
京都に到着する直前くらいであろうか。

唐突に婆さんが話しかけてきた。
「ようやく新幹線にも活気が戻ってきましたねえ」

 

‘’自分史‘’だから明確にわかる。

35歳を過ぎたあたりから急に‘’女性‘’から
道を聞かれたり、飲み屋で話しかけられたり、そんな機会が劇的に増えた。 

もともと外国人に道を聞かれたり、男性から唐突に話しかけられることはあったものの、女性からはほとんどなかった。

 

ドタキャン...
既読スルー...

 

そう、我こそは非モテ界で圧倒的な輝きを放ってきた。

あるときは
かみなりがトラウマで、雨の日は怖くて外出できない」
と、小雨こさめにも関わらずドタキャンされ、

またあるときは
「田舎のおばあちゃんが‘’急に‘’遊びに来ることになったから会えなくなった。」
と、当日になってキャンセルされた。

 

そう。

そんなことだから、
ビジネスにも恋愛にも関係しない
‘’初めまして‘’くらいの浅めの関係の異性から唐突に話しかけられた時、

 

一体何を答えれば正解なのか、
どのようにして話を広げればいいのか、
皆目かいもく検討がつかない。

 

‘’そ、そうですねぇ。コロナも落ち着きましたからねぇ‘’

 

とりあえずとぼしい語彙を並べながら無難ぶなんな回答をし、
ことなきをえたボクは、それだけでなにか大人として次のステージに進んだかのような妙な達成感に包まれた。

しかしそんな平穏な時間は、束の間であった。

「朝は、いつもこんなに早いのですか?」

婆さんは今度はボクの生活に踏み込んできた。
物凄い勢いで鼻息とため息が入り混ざった‘’フガーっ‘’が出たのが
自分でも分かった。

 

一見シンプルで簡単な質問に見えるこの質問は、シンプルに回答するにはハードルが高い。


実態に照らし合わして質問に正確に答えようとすると、
「その日によります」になってしまう。

 

しかし、ハジメマシテの関係の薄い間柄で、

こんなぶっきらぼうな答えをしてしまってもいいのだろうか。
冷たい印象を与えてしまいそうだ。 

素っ気なさが過ぎる。

この婆さんとは、新大阪から東京までの2時間半、隣り合わせで密着して過ごすのはもはや決められた‘’運命‘’であり、
いかなることがあっても変えることのできない‘’現実‘’である。
だから互いに抱く感情だけは良い距離感を保っておきたい。

 

そう思った。

 

じゃあ、それならばと
普段の生活をケースごとに分類し、
‘’このケースでは早起き‘’、
‘’このケースではギリギリ‘’
てな感じで、洗いざらいを話せば良いのだろうか。

いや、それも違う気がする。 

 

ボクは自らの実力を冷静にかんがみて、
婆さんと対峙たいじするにあたっては、
都合よくウソを組み入れる‘’戦法‘’をとりいれる決心をした。

 

‘’そうですね、毎朝こんな感じで大変なんですよ、アハハハハハハハ…‘’

 

イヤな空気にならないように最大級の配慮をしながら、ボクは信じがたいほどに気持ち悪いハニカミ笑顔で返答した。
そしてその後は一転して、これ以上は話しかけてくんなと言わんばかりの
‘’鬼の形相‘’をし、キーボードを大音量でカタカタと叩き始めた。

 

「そうですか。でも朝が早いと頭が働いて色々とできるでしょ??」

ボクの表情と「カタカタ パッスーン(Enterキー)」のキーボード‘’大音量‘’の真意が
どうやら伝わらなかったようだ。

またしてもグイグイとボクに入りこんできた。

この質問は今まで色合いが違う。
取りつくろうこともできないほどに、まったく何も回答が浮かばなかった。

そもそも朝なんて、人様ひとさまに発表できるようなことなんてナニもしていない。
正確にいうとナニもする気がおきない。
それがボクにとっての朝の定番なのだ。

朝、時計が運命の時刻を刻みアラームが鳴ったあの時あの瞬間に感じる、
あの絶望感。世界の終わり感。
眠気と戦いながら、瀕死ひんしの状態で、
命からがら仕事に向かっているのだ。
いつも。毎度。コンスタントに。

そう。だから決まって毎朝することなんてナニもない。

いてあげるとすれば、
‘’朝ション‘’である。
これはいかなる時もする。

しかし、まだ出会ってからも浅い、
精神的な距離感のある間柄の異性に対し、満を持して
「朝は、景気づけに小便をしている」
と発表すること。

 

それだけは良くない。
さすがにボクでもその程度の常識は備わっている。

アラフォーのおっさんからそんなことを聞かされた女性は、
こんな精神的に未熟な人間とは、もうこれ以上会話をしたくない。
横に座っているだけでも気持ち悪い。
二度と近寄らないで欲しい。

そう思われて、これみよがしに座りながら少しずつ尻を動かして
肉体的な間隔をとろうとするであろう。

 

あぁ、どうしよう。

 

そんな低俗ていぞくな次元のことを
あれやこれやと考えてるうちに、無言で気持ち悪い空気が二人を支配した。

不気味で気持ち悪い。

よし。一旦、無になろう、無に。
冷静になれ、オレ。

‘’朝は頭が働く‘’、、か、、?

あ、そうか。

ボクは、追い詰められた状況を打破すべく大胆な行動に出ることにした。


 習いごとをしたい

1年前、長女から言われた。

勉強嫌いでスポーツに夢中だった思春期のボクは、実のところただの一度も‘’学習塾‘’たるものに行ったことがない。

にも関わらず、
中学受験に始まり某国立大学入学に至るまで苦労らしい苦労をしなかったのは、保育園から小学校卒業まで習っていた
 

“そろばん“
 

によってやしなわれた‘’集中力‘’と‘’暗算力‘’と‘’記憶力‘’の賜物たまものであろう。

 

そろばん。

 

折角せっかく本人が、なにかをやりたいと言っているんだし、
絶対的に‘’知識の使い捨て‘’にならないと断言できるそろばんを

“やってみないか?“

と聞いてみたところ、興味津々だったので週二日で通わせることにした。

話を聞いていると「とても面白い」らしく、習い始めて1年経った今では
すでに掛け算、割り算もできるようになり、
暗算に関してはというと3桁同士の足し算はサラっと2秒以内に回答し、
電卓叩くよりも圧倒的に早いってところまできた。

 

幼少期に始めるそろばんは、時間をかければ、誰だって珠算も暗算もできるようになるし、学校の授業では‘’すげぇ‘’と評され優越感にひたれるし、
そういった特殊なスキルによる自信が多感な時期における様々な活動に波及はきゅうすることは経験上わかっている。

だから最初から技能習得については一抹いちまつの心配もなかった。
それよりも、今の時代にこんなマイナーな習い事。
違う保育園、違う小学校、違う年代の子ばかりがいる中で、仲間をつくって心地よい空間にできるかどうかが心配であった。

 

しかしその心配は、呆気あっけなく取り越し苦労ぐろうに終わった。

二日目の授業が終わり帰ってくるなり、
「そろばんのお友達と遊ぶ約束したから、土曜日にゆづお公園に連れてってね」
と言ってきた。

‘’えええ?友達作るのうまいなー。初めて会った子とどうやって仲良くなったの?‘’
と聞いてみたところ、

「遊ぼうって言って断られたら、違う子に話しかけて誘ったらいいに決まってる」

 

大人のくせにこんな当たり前なことも知らないのか、と言わんばかりの答えが返ってきた。

 

ほほう。
この単純な言葉が、大人になったボクにとっては実に衝撃的な言葉だった。

ドタキャンされるとウジウジ悲しくなって、15年以上経った今でも根にもって覚えているようなボクからすると、

初対面の人を誘うことなんてのはもっての他。
話しかけることさえも失敗を恐れて奥手になってしまう。

 

きっとこの感覚はボクだけじゃない。
多くの大人は、どうしても過去の人間関係の失敗がダメージと結びついてしまって初対面の人とは一線を超えた付き合いに踏み込めない。

しかし、子どもは違う。
「嫌われた」と思った経験自体がないから、言ってしまえば図々しく、「断られたのはたまたまだろう」とノーダメージで切り替えられるのだ。そして、さくっと諦めて次に行けるのだ。

 

こう考えると、失敗がダメージにならないで経験値を稼ぎ続けられるって、子どもって一種の無敵モードなんだろうね、って。

 

そんなことを感じた一年前を思い出した。


 「朝が早いと頭が働いて色々とできるでしょ??」

いや〜〜、何ですかねぇぇ... えええ〜っとね。

 

悩みに悩んだボクは、
伝家の宝刀に舵をきることにした。

 

‘’そうね。朝だけは頭が働くんですよ。
足し算が瞬時にできますもん。
電卓叩きながら3桁の数字を5つ言ってみてくださいよ。ボク、朝モードで暗算しますので‘’

 

婆さんは「えぇ〜!」と言いながら
ボクに興味をしめした。
そして5つの数字を声にだしながら、同時にスマホの電卓を叩き始めた。

 

「451、326、228、425、116」

 

幼少期から染み付いたそろばん仕込の暗算でボクは一瞬にして答えを言ってみせた。

‘’ふふふ、1546‘’

婆さんの電卓にも‘’1546‘’と表示されている。
婆さんは目を丸くすると
「まあステキ!すごい」
と小さく感嘆の声をあげた。

 

その後はご想像のとおり。
東京までの婆さんとの密着デートは、なめらかなコミュニケーションの中でわきあいあいと会話が弾んだ。

 

受験戦争だけじゃなかった。
‘’初対面落ちこぼれ‘’のボクは
またしても、そろばんに救われたのだ。

 

そうか。そうだったのか。

長女だっていつか失敗を恐れる大人になる。それは宿命である。
いつか必ず初対面の人との会話に尋常ではない程の精神的な苦痛を伴うときがやってくるだろう。

 

しかしそんな大人になったとき、
ボクはキミに伝えようと思うんだ。

‘’初対面の人とのコミュニケーションに困ったとき。そんなときこそ、そろばんスキルを披露するんだ!‘’

 

ってね。