ゴールデンウィークになりましたね、
皆さまいかがお過ごしでしょうか。

ボクは今日も普段となんら変わりなく
深く椅子に腰掛けて優雅ゆうがに足を組み、
早朝とは思えない程のスピードでスマホに人差し指を滑らせ、
ツムツムをすることから一日がスタートしました。

 

さて、いきなりですが、

何か言っているようで、
何も言っていない。

 

会話の流れをぶった切って
当たりさわりのないことを、
大きな声で話すことに余念のない人物は
あなたの周りにいやしないだろうか? 

質問が分かりづらい?
イメージがつきにくい?

 

そうか。

 

例えばですよ。
野球でノーアウト1、2塁の状況があったとしよう。

「ここは送りバントだろう」
「いや、意表をついて強行策じゃないか?」

と、みんなで
‘’点を取る目的に向かってどう動くか‘’
を話しあっている最中さなかに、

 

ヤレヤレ、お前らはまだまだだな、知の巨人であるワタシが教えてやろうか。
と言わんばかりのドヤ顔をしながら

 

「もっと基本的なところを忠実にしないと。今こそ冷静にストライクを見極めることだ。4つボールを選べば労せずしてノーアウト満塁になるじゃないか」

……いやいや、それは全員分かった上で話してますよ的な。

そんな何か言っているようで、
何も言っていない人。
誰からも絶対に否定されない安全圏の発言に終始する人。

こんな人があなたの周りにいないだろうか?

いるよね。いる、いる。

 

彼らは一体、何を考え、
どこに向かっているのだろう。

それが今、ボクの中でのトップトレンドである。

佐々木朗希ろうきの2試合連続完全試合未遂、20年ぶりの円安水準、ウクライナへの千羽鶴お見舞いの是非…

それらを遥かにしのぐトレンドだ。

 

なぜこんなに気になっているのかというと、
何を隠そう自分自身がどこからどう見ても

「何か言っているようで、何も言っていない」人間以外のナニモノでもないからである。

SNS投稿をするときに
「一般的にはこう言われている」
「あの人はこう言ってました」
「このような可能性もあるし、一方でこの可能性も捨てがたい」

などなど不特定多数に受け入れられたくて、すぐに当たりさわりない表現を利用してしまうのだ。

 

最近はやたらと
「ネット言説げんせつの許容レベル」が下がっていて、哀しいかな、言質げんちを取られないよう、過剰に自分を防衛することに慣れきってしまっている。

 

 そんな中、度肝を抜かれた「生娘シャブ漬け戦略」

「田舎から出てきた右も左も分からない若い女の子を無垢むく生娘きむすめのうちに牛丼中毒にする。男に高い飯をおごってもらえるようになれば、絶対に(牛丼を)食べない」

これが大学の講義中に、
牛丼チェーン店を展開する東証一部上場企業の常務が発した言葉とは、にわかに信じがたい。

多くの人が日常でも、会社でも‘’安全圏‘’の発信を続けるこんな世の中において、

 

たしかに「インパクトがある表現」や「下世話な言い回し」が炎上したり、バズったりして、そのほうはるかに誰かが耳を傾けてくれやすいし、問題提議されやすいという、まぎれもない事実はある。

実業家のホリエモンとか、キングコングの西野さんとか、弁護士の橋下さんとか、
まさにこの手のインパクトある言葉をあやつるプロで

「馬鹿はタダで拡散を手伝ってくれるボランティア」

「ウクライナに千羽鶴送るヤツはアホ、むっちゃアホ。近年まれに見るアホ」

 

「ウクライナとともにあると威勢よく言っていた国会議員はただちにウクライナに行って戦え。」

なんて世間の‘’一定数‘’が「まあわかる」と理解を示してくれることについて、あえてインパクトのあるフレーズをチョイスしてSNSで発信を続ける。

もちろんそれにアレルギー反応を起こして叩くアンチも多数いるが、
一方で「無駄で、余分な、回りくどい、ポエムのような」話を、そぎ落とした端的な言葉として「わかりやすい」といって賛同するファンも多数いる。

「火事と喧嘩は江戸の華」
と言われるように、そうやって良くも悪くもファンとアンチ同士のやり取りが盛んになる場と化せば、それで均衡がとれているし、
そもそも全員から好かれるつもりのない彼らからすると目的は十分に果たせることになる。

しかし、この牛丼チェーン企業の役員さんの言葉。

どこからどう見てもネガティブインパクトが強力すぎて、内容自体まったく面白くないというか、不快なだけであり、

正直アラフィフのおじさんが
若い女の子を「生娘きむすめ」という表現を使いながら「中毒にさせる」というだけで、あとはどんな内容であれ‘’犯罪的‘’な気持ち悪さを感じてしまうのはボクだけではないはずだ。

「これくらいええやん」
が通じないと叫ばれる時代に、
なぜ、P&Gでマーケティングの実務家として名を馳せ、個人としても有名なマーケターが、こんなバカげた軽口を叩いてしまったのだろうか。

そこには超エリートとして甘やかされて生きてきたひと特有にある、時代錯誤のノリをボクはどうしても感じてしまう。


 偉い人は会社の飲み会で、多少不愉快な発言をしても許されることが多い

以前、ここでも書いたことがあるが
「偉くなるとギャグがヒットしやすくなる」という‘’普遍の法則‘’がある。

 

会社の飲み会の笑いの基準は
「面白いかどうか」よりも「偉いかどうか」に左右される部分が非常に大きい。

 

偉い人であれば、つまんない冗談を言ってもみんなが笑ってくれる。
皆が自分の話をふんふん聞いてくれて、
若手はクソつまんない冗談をスルーせずに、しっかりと拾ってゲラゲラと笑う。

 

だから、会社の中だけ、家庭の中だけ、古くからの友人の中だけの
こんななまぬるい環境であれば、エリートは‘’多少の‘’パワハラ発言、セクハラ発言をしても誰からもとがめられることなんてない。

超エリートなら尚更だろう。

 

でも会社のバッジをはずした世界では
その権力は持ち込めない。
 

街ですれ違ったところで、ただのおじさんである。

知らないアラフィフおじさんをヨイショして気持ちよくさせる義理はボクらにはないのだ。

目の前に立たれても電車の席は譲らないし、
人気店で順番抜かしされたらガツンと文句を言う。

だから、そう。
あたりまえだが、限られた空間で通用していたノリを一歩そとに踏み出した世界で不用意にもち出してしまうと、ドン引きされて叩かれるだけである。

 

誰もが度肝を抜かれた今回の発言は、本人はきっと悪気がないはずだ。

つまるところ生ぬるい環境でヨイショされてバカウケしてきた言い回しを
三流の笑いだと気づかずに「聴衆にサービス」するつもりで発せられた「ど真ん中の‘’裸の王様‘’の姿」そのものなんだろうけど、

 

そのような認識を改めなければ、これからの「個人がネットによってつながった時代」は、生き残るのが難しくなってくるはずだ。

いくら半径5mの世界で

名を馳せていようと、
偉かろうと、
強かろうと、

インターネットの力を前にすれば、いとも簡単に社会的に抹殺されてしまうのだ。


 時代は、ボクらアラフォー以上が生きてきた1980〜90年代から様変わりした別世界である

それを真に認識しなければならない。

現在は、テレビから一方的に情報を発信していた時代と違って、
「個人のつながり」が、めちゃくちゃ力を持つようになった。

だからリアル社会の不用意な発言は、SNSに投稿された瞬間に、「リツイート」という形で多くの人に伝わり、

その怒りはフォロー&フォロワーという絆でつながり、人々を動かし、とんでもない炎上につながってしまうのだ。

 

かといって、過度に慎重にになりすぎて

「愛は地球を救う」
「前向きに行動していこう」
「コミュニケーションには意見交換の強化が必要だ」

など、
‘’何か言っているようで何も言っていない‘’
当たり障りのない意見は、
いくら正しかろうが、まったく面白味がない。

 

じゃ、誰もが、
ホリエモンのようなインパクトのある発言ができるか?
と言っても今すぐにできるわけではない。

なんとなく真似できそうにみえるが実際にやってみようとすると、
なかなかどうして、うまくいかない。

 

彼らは、
言い回しのほんの僅かな違い、形容詞のちょっとした違い、段落分け、文の短長の組み合わせが生むテンポなどによって、
相手が受ける印象やプレッシャー、解釈がかなり変わることを知っており、まさにこのコミュニケーションの細部の感性がズバ抜けているのだ。

 

だから、対面アナログ時代を生きてきたアラフォー以上の世代は、今すぐには同じことはできないかもしれない。

が、

でも、今回のような講義やSNS発信など、
いやいや、もっと身近でいうと
営業プレゼンや、面接や、お礼の返信、コメントなどなど。

そういった相手の心に、少しでもインパクトを残したいとき。

「昔はこんな感じでよかった」と懐かしむのではなく、今の時代に受け入れられる表現方法を模索もさくし、工夫していかなければならない。

そういった部分にしっかりと注意を払っている人に、コミュニケーションの神は微笑ほほえむんだって、

 

ボクはそう信じてる。