昨日の夜、ナニ食べた?

 

突然そのように聞かれると、ボクの脳はすぐに回答を出してくれやしない。

 

現時刻は午前4時27分
夕食を食べたのは、ほんの数時間前であるのにナンてことだ。

 

まだ寝ぼけているともいえるが、
いや、まてまて。
20代の頃は、そんなことはなかった。
確実に脳の老化であろう。
 

若い頃は、一度会ったら顔と名前を確実に覚えられるほどに記憶力だけにはキレ味があった。

 

というか、今こうして文章を打ち始めたから思い出せないのだろう、、、。

いったん手を止めようか。

キーボードから手を離して腕をくむ。

眉間みけんにシワを寄せて、そして一呼吸おいてからさらに入念に眉間みけんにシワを寄せてみた。

するとどうだ。
皮膚は飛騨ひだ山脈のようにうねり、アットホームな土曜日とは思えない‘’鬼の形相‘’の眉間みけんが完成しているではないか。

 

よしよし。

仕上げにひざの角度を気にしながら、足を組んでちょいと微調整。

 

そのまま停止。
 

これで昨日の夕飯を思い出すためのポーズの完成である。

 

…あ!
そうだった。思い出した。
昨日はピザを頼んだのだ。

ピザだ、ピザ。

そしてむすめ二人がほとんど食べなくて、
「ゴルラァァァァーーー」
とゴリラのごとく怒ったんだ。

3歳の末っ子は目の前にいるオヤジをゴリラと断定した可能性すらある。自分ですら、自身に宿やどるゴリラソウルを感じたくらいだから。

 

しかしゴリラの言い分も聞いてほしい。

 

以前は、同じピザでも
「おいしー」「パパありがとうー」
と感動して喜んで食べてくれていた。

 

しかしUberウーバーを利用して普段食べられないような料理を頼み始めると

「もっと美味しいものが食べたい」
と不満がでるようになった。

 

最初はそれで充分だったはずなのに、少し上を見てしまうと、それでは満足できなくなる。常に‘’現状維持‘’に不満を感じてしまう。

 

悲しいことに、人間というのは、そういうごうを背負っているらしい。

「上」を見ればもっとほしくなるのが、人間のさがであり、上を目指し続けるということは、つねに枯れない欲望と戦っているということなのだ。

スガシカオのハスキーボイスの歌声をバッグに、各界の超一流プロフェッショナルたちが「プロフェッショナルとは何か」を語りだす。

ファンを圧倒し、選手を圧倒し、圧倒的な結果を残す、ということです。 

イチロー

前線から逃げない。風当たりは強いけど。
木村拓哉
素人に圧倒的な差をつけて力を見せつけることじゃないですかね
松本人志
 

超一流プロフェッショナルの
‘’ぎ澄まされた仕事の流儀りゅうぎ‘’を
凡人のボクが理解してに落ちるまで、いつも少しばかりの時間を要する。

プライドとか、こだわりとか、あるいは哲学や価値観そのものを
抑制よくせいされた「ナレーション」で物語風に語られると「神っぽさ」により拍車がかかる。

「うわぁ、こいつは絶品の人間っすなぁ」

 

と、ボクは「こいつ」呼ばわりをするほどに超一流への唐突なマブダチ感をだしながら、まったく次元が違うところに生きているくせに一丁前に「わかる、わかる」とウナりをきかせてしまうのだ。

こんな「プロフェッショナル 仕事の流儀」を傍観者として、眺め見るのがボクは大好きだ。

ここに出てくる超一流の大半はひたすらに「今いる場所では満足できない」を繰り返し、上に行くための行動を取り続ける。

 

その思考や行動力は全くブレない。

だからこういう人は、生きている限りゴールなんてないし、
自己研磨じこけんまは尽きることがない。

 

こんなポジティブに努力する人を目にすると
「オレもこうしている場合じゃない」
と、余韻よいんひたって心の中までポジティブに熱くなってくるのだ。


視聴後、1時間くらいまではね。

 とある人さまの記事を読んで 「人生におけるゴールとは何か?」を考えるようになった。

少し前の記事だが、
ボクはこの‘’しばまるさん‘’の記事が大好きで、未だに何度も読み返している。

 


これを読むと、

「人生の照準をどこに見据えるか」をライフサイクルに応じて考えていくことは、人生の価値観をも変えてしまうほどに、本当に大切なことだと感じる。

 

  • 高い目標をもって、達成して、また目標を立ててがんばって……という人生

  • すでに持っているものをうまく利用して‘’現状維持‘’をしよう……という人生

ネットではまるで「上を目指すことが大正義」という主張がまかりとおっているかのように、

‘’現状維持‘’を貫こうとする人生は、‘’成長マインドをもった人生‘’の影に隠れて、どうしても見劣って捉えられがちになる。

 

振り返るとボクだってこのブログに、
そういうたぐいのことをツラツラと書いたこともあった。

だってその方がポジティブになれるから。
気持ちだけはまだまだ成長があると信じていたいから。

 

でも、そんなネット社会の風潮に物怖ものおじせずに、“しばまるさん独特のソフトタッチ“で、こうつづられる。

 

‘’現状維持だって、立派なもんだよ‘’

なんだか平凡人生を送るボクを
応援して肩をポンっと叩いてくれたかのような、そんな気にさせてくれたのだ。

「将来の夢が持てる」とか
何者なにものにもなれる可能性がある」とか、
そんな国、そんな時代に生きていられるのはありがたいし、それは幸せである。

でも、才能や伸びしろにとぼしい人が、
「まだまだ」「もっともっと」「自分のほうが」と、ダラダラと「よくわからない成長マインド」に依存し続けてるのは、けっして良いことばかりではないのも悲しいけどリアルである。

 

高い目標をもって、達成して。
また目標を立ててがんばって……。

無限に湧いてくる欲を少しでも満たし続けようとするその戦いの先に、

いったいなにがあるんだろう?

伸びしろにとぼしくなった人が
「夢を追っている自分自身の美しさ」
を追い求めた結果、

むしろ、
よからぬことに手を染めたり、
無謀すぎて借金をしまくったり、
ストレスを抱えて毎日イライラしたり、
人の幸福を素直に喜べなかったり、
手段を選ばず強引になってまわりから孤立したり、

不幸にみえてしまう人が決して少なくないように思えるのは、ボクの見当違いではないはずだ。

だから、成長を追い求めない選択だって、
たぶん、あったっていい。

それは妥協かもしれないけれども、人生をまずに生き抜いていくためには、きっとそれも大切な選択なんじゃないだろうかって。


 「自分は何者にもなれないのだ」と知ってから、本当の「人生」がはじまる

春は別れの季節。

先日、定年を迎えた長老が職場を去った。


最終肩書は‘’リーダー‘’。
仕事的には、よく言われる「何者にもなれなかった人」の一人であろう。

 

しかし、ボクが知るそのリーダーは、
いつも皆がやりたがらない、地味でつまらない仕事、いわゆる雑務を割り当てられても本当にニコニコしながら楽しそうにやっていた。

 

自分が主役になるよりも、エリートや若手を助けること、彼らを称えること、つまるところ組織の縁の下の力持ちであり続けることを、
自分の役割であると考えていたのだ。

 

そんなリーダーの最終出勤日。
リーダーがいつものように仕事をして関係各所にお別れの挨拶をしてまわり、事務所を出ようとしたときだった。

 

「リーダー、待って、待って!」

 

同部署に所属したベテラン社員が声をかけた。

 

するとどうだ。
その言葉を合図に、リーダーと今まで関係してきた社員が、3階、4階からもそれこそ別棟からもぞろぞろと集ってきて並び、彼のためにみんなが手をつないで長いアーチロードをつくったのだ。

いわゆる用意周到のサプライズである。

 

コロナで会食ができないからとか関係ない。
チャペルから出てきた幸せいっぱいの新郎新婦へのライスシャワーのロードかと見間違うかのような、そんな熱い「花道」だった。

 

こんな光景は、20年働いてきてボクは見たことがない。


40年あまり何度も通ってきた出入り口までの‘’ロード‘’を沢山の人から感謝の言葉をかけられながら通過し、最後に抱えきれないほどの花束を受け取った。

そして振り向いてペコリと頭を下げたリーダーの顔は、照れ笑いしながらも少し泣いているように見えた。


そしてボクが見たその光景も、少し潤んでいた。いやぁ、少しじゃなかったかもしれない。ココロが言葉で表現できないナニかあたたかいもので満たされた。


ボクは、こんなふうにみんなに惜しまれて送られていくリーダーをみて、心底すごく羨ましかった。

「プロフェッショナル 仕事の流儀」に限らずネットやメディアには、ドラマチックな人生があふれていて、平凡で見せ場もない人生って何なのだろう、と言いたくもなってくる。

 

いくつになっても「未来にピークがある」と思いたいし、自分自身で「見切りをつける」のは価値感を変えることでもあり、
認めてしまうのは未来を諦める気がして難しいことでもある。

 

でもそうじゃないんだ。


40歳を通過した自分自身の‘’伸びしろ‘’なんてたかが知れていると認めたうえで、今、できることに力いっぱい取り組んだっていいんだ。

残りの半生。
「これがいい」「これじゃなきゃダメだ」じゃなくて、「これでいい」と思える生き方を全力疾走したいと思う。

なにかを「成し遂げる」ことはできなくとも、
‘’現状維持‘’に納得して、人生の醍醐味を思う存分「味わって」やるんだ。