「リアル二刀流」「ショータイム」

年末の風物詩
「ユーキャン新語・流行語大賞」
が発表されるなど、

気がついたら世の中は師走。

ここ関西では、
大阪御堂筋イルミネーションを筆頭に12月に入る頃から、街中のいたるところにクリスマスツリーが登場し、装飾された煌きらめくイルミネーションが日の入りとともに


「日常とは別の空間」
の演出をハジめる。

この時期になるとボクは、あの日を思い出す。

12月24日
クリスマス・イヴ

大学受験を間近に控えた高校三年生のオレ。人生で最も多感で、最も恋愛によって幸せを感じられるこの時期。

甘酸っぱい青春がそこにはあった。

小遣いで買ったプレゼントに手紙を添えて学校にソレを持っていき、憧れの仲良しの女のコの下校時刻を待って偶然を装って一緒に帰った。

二人で。

初めて。

車も殆ど通らない田舎の細くて長い一本道。
好きな子に「好き」と言えないもどかしさ。舞い散る粉雪が、二人の絶妙なドキドキ感を見事なまでに助長する。

家まで送っても離れがたくて、 寒い中寒さも感じずに人目を気にせずに、ずっと外で話しこんだ。

高校3年間の思い出、たくさんあったね…

いよいよ始まる大学受験、お互い頑張ろう…

将来、教師になりたいなぁ…

なんて立ち止まって1時間も話したかな。
ふと腕時計に目をやると長針と短針が150度の角度を成し19時をお知らせしていた。

あぁ、そろそろ時間だ。

ついにカバンに忍ばせたソレを取り出して
「実はさ、、プレゼントを用意してて、、」
それ以上はナニも言えずにサッと手渡した。

緊張のあまり。物凄い勢いで。とんでもなく鼻息を荒くして。フガーっと。

たぶんサルの発情期みたいな顔してたと思うな、そのときのオレ。自分ですら感じたのだから、相手はもっと感じていたはずだ。

そこからはもう…

どうしようもなく恥ずかしくなって後ろも振り返らずに走って、一目散に家へ帰った。

…………

翌日学校に行くと、ボクの下駄箱に、封筒がちょこんと行儀よく置かれてあった。

あれを見たときのナンとも表現し難い感情。
あの震えるような感動をボクはキット忘れることはないだろう。

急いでトイレの個室に駆け込んで、封筒をむさぼるように破って手紙をとりだして読んだ。

「ありがとう。お互い第一志望に合格してからだね…」

という一文が……。

Σ(゚∀゚ノ)ノ

会いたいから〜ぁ、逢えない夜には〜♪
貴方を想うほど umm〜♪
想い出にはぁぁ、2人が歩いた〜
足跡を残して〜♪

当時流行っていた
GLAYの「Winter again」が
ボクの心境と妙にシンクロして脳内再生を何度も繰り返した。

前夜は勉強が手につかなかった。
半日も、あーだ、こーだ考えて。

手紙には返事までのタイムラグがある。

でもこのタイムラグ。
タイムラグこそが恋愛感情の高ぶりに拍車をかけるのだ。

うーん、これぞアオハル。青春だ!

しかし、働き始めてからのクリスマスはどうだろうか。

子供の頃からの刷り込みなのか、子供時代への憧憬(しょうけい)なのかはよくわからないが、


クリスマスへの「ちょっとした盛り上がり」はこの年になっても感じる。

だが子どもの時のようなドキドキ感は時の流れと共に、徐々に、徐々に閉じていくのを感じる。それよりも、ふと気がつくとクリスマスは終わり、そこから一気に年末モードに突入する。

「今年のヨゴレは、今年のうちに!」

そんなこと言っておきながら年末に大掃除したところでゴミの回収日が通常サイクルでないことに気づいて

「あぁ!捨て損ねた・・・やっちまった。とりあえず、ベランダに置いておくか~」

「え!?缶を捨てたいのに、次の回収日は来年かよ!」

なんていう初歩的なミスに、大きなインパクトを受けてボクはうなだれる。

うーん、これぞ退化。哀愁だ!

はい。
前置きが長くなりました。
そんな季節がやってきましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。


 年賀状を作成した

2021年現在、普段の意思疎通、コミュニケーション手段はすべてSNSかLINEといっても過言ではないだろう。


今やどうしたものか。

友だちのフルネームさえピンとこない時がある。みんながmixiをやるようになった2005年頃から、コミュニケーションは急速にデジタル化されていき、年賀状の代わりに
「あけおめLINE」
を送りそこで近況の報告をする。

手紙だったら内容を考えて、便せんを用意して、手書きをして、封筒に入れて、切手を貼る。

そしてポストに走る。
それか、下駄箱かな笑

返事は数週間後、数ヵ月後、年賀状なら1年後なんてこともありうるし下手したら返ってこないこともある。

でもそれでショックを受けることはあまりない。逆にその返事までの長いタイムラグが、感情の高ぶりに拍車をかけることだってあるのだ。

うん。事実としてあった笑

目的は「一方的に伝える」ことだから、気持ちとしては受け取ってもらえさえすれば返事がなくてもいい。

つまるところ手紙は、伝えるまでの「一苦労」はあるものの、それに対して相手から見返りを求める期待値はそれほどまでに高くない。既読スルーなんて当たり前の感覚なのだ。

あ、そうだ。

昔のコミュニケーションの「苦労」で思い出した。これを外してココを論じるワケにはいかないから、あえて脱線しよう。

ボクの学生時代は、好きな子に電話することなんて、もはや戦場と化していた。

ただただ電話するだけなのに
「どうしても拭いきれない不安」
に押しつぶされそうになるのだ。

やれ、
話しすぎたら嫌われるだとか、
かといって質問攻めも面倒くさがられるからほどほどにしようだとか、
押して引いての駆け引きをしようだとか、
オウム返しで聞き上手を演じようだとか、

「拭いきれない不安」
とは、そういったコミュニケーションの核心に関するモノではない。

それ以前の問題として

スマホ、携帯の普及していない時代。

家にかけた電話に
「相手の親」
が出るという常軌を逸した威圧感が、まずはボクたち学生の恋愛に立ちはだかるのだ。

だから彼女の母親を買収する必要があった。

母親に気に入られないと娘に電話を取り次いでもらえないからだ。

父親が出たときは、そりゃごめんなさい。
さっと無言で電話を切る。
そう、一瞬の判断ミスが命取りになる。

プッシュボタンを押し進める中で、
父親だけは勘弁して欲しいけど、こういう時に限って出てくるんだよなぁ。
親父がでるかもしれねぇ。
その不安に押しつぶされそうになるのだ。

「今日、髪切ってたな。可愛かったな。あ~、学校では照れくさくてナニも言えなかったや。

印象を残すためにも、一言伝えたいな。
電話をかけて親が出たら何て言おうか。宿題のことを聞きたいって言って、つないでもらうおうか。

じゃ、つないでもらったら、ナンて言おうか。あまり長くなると親に不審がられるから端的にしないとな。

か、、、髪型可愛いねと言ったらいいのだろうか? 顔はどうなんだよと思われるかな? いや普通に喜んでくれるかな? このタイミングで電話して髪型を褒めるのって、なんか不自然かな? ど、どうしよう、どうしようどうしよう。うわぁぁぁぁ。」

と、まぁ、こんな感じで昔はコミュニケーションをとるための苦労を受け入れなければならなかったし、

逆に言うとそれが親密さや友情の証になっていたとも言える気がする。


 でも今はそうじゃない。

ダレとでも簡単に連絡がとれる。

もっというなら取る必要すらなくなってきた。

何気なくfacebookを開き、

おお、知ってるわ。そうそう。
ああ、この人、あれだ、あれだ。

なんの苦労もせずに何の気無しにボケっとタイムラインを流し読みし、

「誰か」の人生をリアルタイムでそっと覗き見して、誰かの結婚報告と、誰かの赤ちゃんの写真と、誰かの退職エントリー。
あとは
「え、いつのまに子どもさんこんなに大きくなったの?」
と誰かの子どもの成長スピードにまで覗き見するおせっかいおじさん。

今や、全く連絡をとらなくとも、クリックするだけで一連の誰かの近況を把握していける。

そして、ふと気づくのだ。

ああ、僕の人生も、こうやって誰かから、同じようにそっと見られているんだろうな、って。

それが良いか悪いかではなくて、世の中にこんな簡便なコミュニケーションツールが広がりをみせたからこそ、

手紙では気にならなかった
既読スルーが気になるし、
リアル友人にフォロバされないとなんだか心配になるし、
日常の一コマにすぎない日記を一方的にアップしておきながら「いいね!」されなかったら「見てくれていないの?なんで?」と感じてしまう。

コミュニケーションの
「手軽さ」
と引き換えに、ボクたちは、人との距離感がよくわからなくなってきた。

・・・って、なんの哀愁漂う話をしてるんだ。

 

あ。
さすがに脱線しすぎた。で、年賀状を書いたという話に一気に戻すか。

そんなボクでも、結婚式にご招待頂いた人、自分の結婚式にご参列頂いた方とは、
その翌年の年初ご挨拶

「私たち結婚しました!」

の年賀状授受の流れから、ずっと継続して交わしている。

最近のボクは年賀状を作成するたびに、忘れていたどことなく懐かしい味を思い出すのだ。

手紙や年賀状。
それはいつも他の人には言えないことや、面と向かって伝えづらい本当の気持ちを閉じ込めて、こっそりと運んでくれる。  

手紙はとてもわがままな連絡手段でもある。
「久しぶり。元気?オレは元気。最近ね……」と一方的に自分の近況報告をするしかない。

書きたいことを書き、伝えたいときに伝える。いま思えば、手紙はなんて気楽だったんだろう。

と、感じるのだ。

そしてこうも思う。
ボクは年賀状をやらなければ、いつしか1年に1回「あけおめLINE」をするかつての同級生より、毎日SNSでつながる一度も会ったことがない人のほうが、なんだか身近に感じるようになってきてしまうんじゃないかって。


 あっちゃこっちゃしたまとまりのない記事で、僕がナニを言いたかったのか笑

さて、そろそろまとめよう。

朝早起きして寝ぼけた顔して書いた前回記事。


主張が言葉足らずで、ナンとも小学生の作文並に低クオリティだったことに、後で読み返して自責の念に駆られたのだ。


 

 

5000文字も書いたものを読者様に再度読んでいただく苦労をおかけするのは申し訳ない。

ザッと要約し、一部を切りぬくと
「手書きの日報や履歴書には合理性はない」
という内容になっている。

前記事の
「手書きの苦労は合理的ではない」
という意見を書いてから、

今記事に
「手書きの手紙は気楽」
という意見を書いた。

なんとも二重人格と思われそうで怖い。

結局、「楽しい」「苦痛」「情緒アル」「効率的」「めんどくせー」………ナドナド

そんな感情的なものはそもそもどこにも普遍的な規定は無くて、全ては
「本人のそのことに対する心の持ちよう次第なのだ!!」
という結論である。

ん?

という結論に変えさせてほしい、だな笑

自分の苦労やそこから得られる成果を規定するのは自身の外部に存在する外的な要因、つまり普遍的な真理ではない。

それは自身の心の持ちよう、考え方、あくまで内的な要因なのだ。 

気持ち次第で、クリスマスを「甘酸っぱい」と感じることもあれば、この時期は「ほろ苦いなぁ」、と感じることもある。

だから
「効率的だからPC」、「内容はPCで伝わるから手書きの苦労は意味がない」というような、目くそをつけて安直な結論を出すような野郎はアホなのだ! 

と、反論させて頂きたい。

一週間前の

早起きした

オレに。

どんなイベントだって、仕事だって、作業だって楽しみ方を見つけて純粋に楽しんでいる人がいる。

負の感情を抱くときは、自分自身がそれに夢中になっているか、楽しもうとしているか、斜に構えていないか、といった姿勢をまずは見つめなければ、どんなコトだって楽しめやしないだろう。

……

なんて、普段めったに真面目なことを書かないので、朝から書き始めて3時間か。ものすごく時間がかかってしまった。

なぜこんなことを書こうと思ったか?

昨晩、子どもが掃除機の取り合いをして大喧嘩する姿をみてね。

掃除なんて「ルンバ」だけが真理じゃないんだよな。忘れてしまいがちだけど、モノゴトの本質ってこれだよなって。

あぁ、なるほどな。
と、子どもから学ばせてもらったワケです。

ということで皆様。
いつになっても
「甘酸っぱい青春」
を感じられるように全力の楽しい週末をお過ごしください。

下駄箱もね。

大切にね。