これは幼児の記憶は科学では説明できないと「なぞなぞ」によって確信したお話である。
一般的に3歳以前の記憶は残りにくいと言われる。これを「幼児期健忘」といい、その原因は
①幼児期の学習能力が未熟であり、記憶をあまり長く保存しておくことができない
②記憶を貯蔵した神経ネットワークが、後で記憶したものにアップデートされて当時の記憶を思い出せない
とあるが、僕達はそもそも幼児の脳を再現することができないので完全な解明が未だに難しいようだ。科学は目覚ましい発達をしているが、未だに世の中には解明できないことがたくさんある。
長女の保育園時代の友達の家に遊びに行った
先週土曜日の昼下りに、長女が保育園のときに同級生だったゆづきちゃんの家に我が家総出の5人で遊びに行った。
長女は年少組から入園したゆづきちゃんと仲良しで、3年間まさに何をするのも一緒だった。
小学校が離れ離れになったが、未だにママ経由で連絡をとりあっており、お休みになると声を掛け合ってよく公園で一緒に遊んでいる。
男おっさん同士はパパ友ってわけではないが、長女やママの関係性から派生して家族ぐるみでお付き合いをしているといったところだ。
ゆづきちゃんの家はよくある都会の細長い3階建ての一軒家。1階は洗面や風呂と和室。3階は子ども部屋に寝室。2階はリビングが広々としており、大勢の人が集まるには適した場所である。だからいつもこのような会合があるときはゆづきちゃんの家で開催される。その日は他にも参加者がいて、こちらも保育園の時にお友達だった「あおいちゃん」家族。
結局、合計3家族のパパママ子ども達12人で集まることになった。
さすがにリビング広しといえども、普段は4人住まいの生活空間であるため、子ども用の小さいテーブルと座布団は用意されたものの12人が過ごすには十分とは言えなかった。
本来ならばパパママ達と、子ども達は分かれて時間を過ごすが、この日は境界線を明確にすることはできず、次第に子ども達の遊びを親が横から眺めるようになり、それを見ながら笑ったり、突っ込んだり、口を出すような雰囲気になった。
最初はしりとりをしていたが、子どもというのは遊びの天才である。展開がとても早い。次はアルプス一万尺、すごろくと続く。
僕らパパ友はそれを見ながら当たり障りのない会話を少々。ゆづきちゃんのパパとは今まで何度か話すことはあったが、それも深入りする会話ではない。
あおいちゃんのパパに至っては今日が初絡みである。
まぁ端的に言うとパパ三人は、各々のママに言われてこの場に「連れてこられた感」が満載の他人行儀の参加姿勢である。
なぞなぞが始まる
すごろくで負けたゆづきちゃんが急に「なぞなぞやろう!」と言いだした。
ゆづきちゃんのママが言うには、どうやら小学校のクラスで流行っているようで、そこで沢山覚えて帰ってきて毎日ママを相手になぞなぞをだしているらしい。ゆづきちゃんからしてみれば、次は勝つために自分の得意分野をもってきたのだ。
「たぶん長女は無理だろうな」僕は心でそう思った。長女がなぞなぞを姉妹間でやっているところを見たことないし、僕にしてきたこともない。そもそもダジャレの仕組みを理解していない。クイズとなぞなぞの区別つかないだろうなって。
早速、ゆづきちゃんが自信満々に大きな声で問題を出した。
「お茶はお茶でも子どもが好きなお茶はな〜んだ」(答 おもちゃ)
おっと。なかなかの良問である。
あおいちゃん「おっちゃん」
6人の親全員が爆笑する。まぁ、ある意味間違ってないよね、正しいよね、って。
あおいちゃんは「なぞなぞ」の仕組みを分かってる。
さぁ、長女だ。
「うーん、茶色のお茶」
ゆづきちゃんから「そういうのじゃない」とすぐにダメ出し指導が入る。
親同士に苦笑いの気持ち悪い雰囲気が流れる。気まづくなったママが「パンとフライパン」のなぞなぞを例にだしながら焦って指導する。
すると「あーそういうことね、わかった、わかった」と。
長女の口癖である。次に進みたい時は、説法されるとすぐに「わかった」と早口で2回言う。たいていこんな時は分かってないのだ。
そうこうしている間に長女が問題を出す番になった。いやぁ、無理だろう。
長女「ガンはガンでもパパにあるガンはなにガンだ。ヒントはママにはありません」
えっ。ママにはなくて、ぼくのガン?
さっきまで「お茶」のなぞなぞで「茶色お茶」と回答した長女だ。
誰がどうみてもなぞなぞの意味分かってないんだから、そりゃ不穏の空気が流れる。
我が家を除く2家族の親の頭では「えっ!?癌?何癌なの?」「子どもが家の秘密ぶっちゃけた瞬間?」である。
この空気が嫌すぎるので僕はそこはさっさと否定したいが子どもが問題出したばかりで「違うよ」と今はまだ否定することもできん。
さすがになぞなぞ熟練のゆづきちゃんもポカーンである。
そりゃそうだ。僕個人のガンをひっかけた問題なんて小学校で流行している問題にはない。長女のカウントダウンが始まる。
10、9、8
なんだろう。僕がドキドキする。あおいちゃんが苦しまぎれに回答した。
「こうがんざい」
えー、なんで小学1年生で「抗がん剤」知ってるん?それもビックリだ。
しかしその回答で親たちの不穏な空気が更に深刻になる。あおいちゃんのママが小声で「え〜、もぅテレビの見すぎで、変なこと言わんでよぅ」とかなんとか言ってた気がする。
ブッブー、でも惜しい!
惜しい??抗がん剤が惜しいってあんまりないぞ。
7、6、5、4
長女のカウントダウンが再び始まる。
ゆづきちゃんが苦しまぎれに急いで叫んだ
「がんばってること」
いやもう全く笑いがおきん。見事なまでにシーンである。もぅ、ここで悟った。
「癌、抗がん剤は惜しい、がんばってる」。
親の頭はみんなもぅ僕が癌で埋め尽くされているのだ。あとは何の癌かである。
みんな早く正解が聞きたいのだ。
ブッブー、残念でした!正解は・・・
答えに唖然とした
「こうがん(睾丸)です!」
・・・
うっそー。嘘やろう。一瞬、耳を疑った。「こうがん」は「睾丸」のことを言っているなんて思わない。まさかうちの子に限って、の心境である。
パパ友はクスッと笑ったというか震え笑い。
ママ達はひらがなが漢字変換できずに「え?なになに。どういうこと?」である。まぁね。タマみたいな呼び方はしてきただろうが、そこのことをコウガンなんて呼んだことも言われたこともないだろう。それを今、我が娘が言ったのだ。
いや、あまりにビックリして僕もどう処理していいんか分からない。なぞなぞとしては短時間でかなりの成長ではあるので素質は感じた。
長女「だってパパ、男の子にはコウガンがあるって言ってたやん」
ここで皆、何を指しているかを悟った。
大人たちは爆笑となる。
え?言ったかな。いつのことだ。そんなこと子どもに言わない。
あー、あー、あー、記憶をたどる。
あった、そうだ。甥っ子が保育園のときだ。睾丸が熱くなる病気で手術をしなければならないって時にお見舞いに行く時に車の中で確かにその話をした。女の子にはないけど、男の子にはコウガンってあってね・・・。って。
たしか睾丸炎って病名だったかな。病名に「コウガン」ってあったから言葉に出しただけで普段はコウガンなんて言ってない。
しかもそれ長女が3歳未満。それ以降、そんな話しをしたことない。長男のものは、普段から「ち○ち○」と呼んでいるし。
そんなことをあまりにも恥ずかしすぎて、必死にパパママ達に説明というか弁明しまくり。まぁ、おかげで気まずかったパパ友とも一線を越えて仲良くなったけどね。
久々に、冷や汗かいた一日だった。というか、子どもの記憶は残るので皆さん気をつけてくださいというお話です。
科学で説明できないから面白い
日本心理学会に「幼児期健忘について」下記の通りある
https://psych.or.jp/interest/ff-25/
一般的に子どもは1歳半頃までに言葉を話し始めるため、言葉という短期・中期記憶から発達します。
しかし、「いつ」「どこで」「なにを」したかというエピソード記憶が発達していないため、
「自分自身についての記憶」であるエピソード記憶は発達がとても遅く4歳ごろに機能するといわれます。
このため,幼児期の記憶がないと感じます。
しかし,乳児期にまったく記憶できないわけではありません。
これまでの研究で,ヒトの生後3カ月で1週間,4カ月で2週間ほど記憶が保持されていることがわかっています。
つまりヒトはある条件を揃えることで記憶を想起させることができるということだ。
長女にとってお見舞いに行ったことは「自分自身の記憶ではなくて他人の記憶であった」ため、記憶に残りやすかったのかもしれない。
科学では解明できない部分とはこういうことだ。
そりゃそうだ。僕らの人間の脳はあまりにも複雑で学習を成立させるたのパスが沢山ある。
つまり可能性は無限大、科学では計り知れない。そう思うと「子どもの未来」「自分の未来」が明るくなることは間違いない。