ブログを開始してちょうど1週間。なんと初めてフォローを頂いた。

hongzhijintianさんありがとうございます

記念すべき一人目。

当初より無作法にフォロワー獲得を狙った対策をしていない。世間様からみれば一週間でこれは「しょぼい」だろうが、これからも一貫して等身大のありのままの自分で粛々と更新する自己ログブログとして書き記していく。


ただ子育てであったり、マラソンであったり、等身大の自分の考えと合致する人の輪を広げるためにアメブロだけでなくnoteWordpressも始めようとは思う。
そこには同じ10年後の50歳でも、何もしないままの10年後とブログを始めた10年後では、自分の生活や人脈が明らかに違ってくるだろうという未来がみえるからだ。自分にとって価値観の合う人と繋がっていたいのだ。
 
初投稿の記事で触れたがブログは12年ぶりである。



前ブログはFC2ブログで、時事ネタを取り上げて個人的主観を交えながら要約したり、僕の専門分野を語ったり、趣味をオープンにしたり、そして資産運用の実績を写真付きで公開するなど丸裸の自分を表現した。当時はちょっとした表現の不備でSNSに晒されて炎上するなどといった表現者にとって生きづらい世の中ではなかった。
アクセス数を表す単位として現在は「PV」という単位が主流だが、その単位に合わせると更新してもしていなくても1000PV/日を下回る日はなかった。今の人気ブロガーからみたら「少なっ!」だろうが、当時はこのPV数でも広告媒体からお声がかかったり取り上げて頂いたりした。
 

 僕がブログをやめた理由

不特定多数の匿名ネット上であまりにも自己の評価が高まってしまった。Yahoo!のトップニュースになる時事ネタを取り扱うとものすごい勢いで反応される。どこからともなく閲覧者が現れてきて僕の正義感満載の意見を称賛してくれる。
現実の自分は何も変わっていないし影響力もないのに、ネット上の不特定多数からの評価はどんどん高まっていく。
大人になると人に褒められることは殆どなくなるから反応に酔ってしまってとても居心地が良くなっていた。
 
次第に現実の自分は何も変わっていないのに「すごい自分」と勘違いしてくる。
そうすると常に「すごい自分」を演じなければならない。これにものすごく疲れたのだ。
次元が違いすぎるが木村拓哉さんはそういう意味で異次元な精神力の持ち主だと思う。もう30年以上も何に関しても一流にこなす「すごい自分」を演じなければならない。ジャージでコンビニ行くこともできない。寝癖のまま散歩して写真撮られるわけにいかない。常にカッコいいキムタクでなければならない。

話を戻そう。僕が「すごい自分」の演出が続かなくなったのは「資産運用」を公開していたところにある。株は長期運用によって実りをもたらす。短期的には上げ下げをする。どんなに一流企業でも、時事的にテレビで好調さを伝えられるイケイケの企業であっても株価は上げ続けることはなく市場環境によって大きく下げることは多分にあるのだ。
 
数字は真実の鏡。ごまかせない。
バリュー株投資が得意な僕は独自の指標で銘柄を選別し購入した株のほとんどが1年間で2~4倍になった。その時は「すごい!」「神だ!」と評された。しかしリーマンショックの頃(2008年頃)、購入した銘柄は含み損となった。株の原則だとここで買う。過去のマーケットの歴史を振り返っても投資家であれば長期的目線で買わなければならない局面である。しかしそれを力説してもなんの説得力もなく負け犬の遠吠えのように思われて心無いコメントが沢山見受けられるようになった。ここでやめようと思った。僕は現実社会を生きる。そう決めたのだ。
 
今でも「すごい自分」を演じることはできる。
それに「いいね」がつくかもしれない。でもその「いいね」は現実(リアル社会)ではどれだけの努力が必要だろうか。「いいね」「すごいね」現実ではこんなこと簡単に言われない。たくさんの時間とチャレンジを重ねた上で初めて言われる。あまりにもネットでの「いいね」に慣れすぎてしまって「すごい自分」と勘違いする自分にはもうなりたくない。それで苦しむことはわかっているから。
僕はネットでは失敗談を語って反省するくらいがちょうどいいのだ。「すごい自分」は現実で目指すものだから。
 
僕はネット上でランキング上位になるような人格者ではない。だからその立ち位置の振る舞いはできないし続かない。なぜなら僕は万人から評される「すごい人」じゃないから。そして現実的にもうそのポジションになれないし、目指せないし、そんな器ではない。
この現実から目を逸らさないし、逃げないし、もう偽らない。

 僕たちの正義感はどこにあるか

一般人がYou Tube、Twitter、Instagramで登録者数、フォロワー数を増やしインフルエンサーとなり世間に影響を与えられる社会になった。
 
この世の中では「何が正しいか」という物差しが「この人が言ったから正しい」になる。
今の子どもはこのようにして「いいね」市民権を獲得した人や肩書とか権威で「誰が言ったか」で正しさを判断する癖がついてしまう環境にある。
「いいね」市民権を獲得した人同士のバトルは互いの支持者を巻き込んでネットニュースで取り上げられるほど大きなものに発展する。多くの人達は一人の子どもが中学校に行かなくても、大御所同士が喧嘩してどっちが正しいかなど外野としての興味があるだけであって自分の生活が変わるわけでもないので本音はどうでもいいのだ。それでも日常的にネットニュースで目にするので話題になる。意見を求められる。どっち派なのか立場を求められる。
これは限られた時間で生きる僕らにとって、生産性のない本当に無駄な時間なのだ。
 

 いいねの洗脳

「フォロワー数」や「いいね」で判断するようになると、簡単に人に騙されるようになる。
フォローした相手は神様でもなんでもない。僕らと同じ人間である。人間だから沢山間違う。インフルエンサーであっても、資産家であっても、ソフトバンクの孫さんであっても、YOUTUBE界のカリスマであっても、僕もあなたも間違えまくってる。にんげんだもの。
フラットな目線でみないと宗教のように盲目的に誰かを信じてしまう。これは末恐ろしい。
 
職場の会議でもその傾向がある。
平社員が言っていることと、肩書をもった人が同じことを言ったとしよう。
同じなのに同じに聞こえない。極端なのが平社員が既存の概念をぶち壊すような意見を言ったら「現実を知っていない」とボロカスに反対意見が出るだろう。その後に部長が「さっきの意見、黙って聞いてたけどそれいいね」と言った瞬間に雰囲気が変わる。ボロカス言った人は「あぁ、そういう意味だったんだ。部長が言うように説明してくれんと伝わらんって」と帳尻合わせと、ここでも部長ヨイショ(いいね)の発言がくる。もうこの展開になるのが分かっていて参加者の多くは部長がどこで頷くかをチラチラ確認しながらどっちのスタンスにするか立場を決めているのだ。
 

 いま僕が子どもに伝えたいこと

12年前の僕と今の僕。29歳と41歳。
色々な経験をして今がある。育児から日々教わることもある。自分のことだから100%言えるが全てのことで12年前より知識・知見が深まった。人に対する思いやりも。
だけどPVは圧倒的に違う。コンスタントに1000PV/日の僕と6PV/日(5月14日)の僕である。
12年前の僕と言い争ったら、おそらくネット界では12年前の僕が支持されるだろう。中身すっからかんな僕を。これが現実である。
 
大事なのはどんな肩書をもった人が言うかではない。
何を言っているかに焦点をあてることを意識しなければ、各所に多くの洗脳された信者が次々生まれ、常にそれぞれが尊師の意見を中心にして対立しあって生きていくことになるだろう。そんな環境でこれからの子どもたちは育っていくのだ。
だから意図的に自分と反対意見の情報をたくさん仕入れてほしい。僕の子どもの頃と違って図書館に行かなくても今は簡単に情報を入手できる。
沢山仕入れた上で自身で物ごとを判断できる大人に育ってほしい。よろしくね。



育児から教わったことすごい自分、いいね!もらえる自分を現実社会で目指そう。誰が言うかではなく何を言ってるかに物差しをあてて考えて。

 

よろしければフォローよろしくお願いします。この歳から始めて新しい友達100人できるかな。