労働とは美徳である?
日本人が長年にわたって植え付けられて固定観念です。
『美徳』とは、美しい徳。
『徳』とは、社会的に価値のある性質。広く他に影響を及ぼす望ましい態度。
『労働』を積み重ねた先に、何が構築されるのかを考えれば、『労働』には社会的な価値は存在します。
それは、マクロ経済の目線で考えた場合です。
個人、一人一人の積み重の労働が、日本社会全体の経済を発展させます。そして、人々の生活が豊かになり、楽になります。
つまり、日本社会全体の価値として捉えれば、『労働』は『経済成長』という『社会的に価値のある性質』が生まれ変わります。
『労働』は日本社会全体の『経済成長』の一端を担っているという事です。
そういう風に捉えれば、労働とは『美徳』なのかもしれません。
しかし、それは資本主義経済下における『労働の価値』です。
資本主義経済とは真逆の社会主義経済の場合はどうなるのでしょうか?
社会全体を成長させる、という『労働』そのものに、価値があり、皆、それを疑うことなく、突き進む事ができず、社会主義経済には崩壊しました。
社会主義経済下の労働では、成果を出そうとも、出さなくても、受け取れる報酬は変わりません。
その結果、不公平感が蔓延し、労働意識が低下し、人を堕落させます。
もし、『労働は経済成長を必ず促(うなが)す』、のならば、社会主義経済下での『労働』も資本主義経済下での『労働』と同じように、通常時(戦争、災害がない)において、労働者の意欲は低迷することはく、生産性は向上し、社会主義経済も発展し継続していたはずです。
しかし、現状は逆で、社会主義経済の代名詞であった『ソ連』は崩壊し、中国ですら、資本主義経済に移行しました。
同じ行為(労働)を行っても、状況が異なれば、別の結果が生まれる。
そう考えれば、『労働は美徳』とはなりません。
では、なぜ、日本には『労働は美徳』という考え方が根付いたのでしょうか?
日本は敗戦後、食べるモノ、着るモノ、住む場所が何もない状態でした。
そんな中、皆、必死で働き、生きてきました。
その結果、高度経済成長期を得て、バブル経済期を迎え、日本経済は怒涛のように成長を遂げました。
皆、懸命に、働いて、働いて、そして、『生活の豊さ』という恩恵を誰しもが受けました。
それは一種の『成功体験』と言われるモノです。
そして、その成功体験が『労働は美徳』と勘違いされ、それを信じ、疑わない人が大勢誕生してしまいました。
人の心理として、一度成功した体験を手に入れると、次に困難や難問にぶつかった時、『同じ手法で成功する』と思い込みが発生します。そして、実行します。
それは、時には同じように成功するのかもしれませんが、置かれている状況が違えば、そう簡単にうまくいく訳はありません。失敗することがほとんどです。
バブル経済が崩壊して以降約30年、ほぼ経済成長を遂げていない日本社会。
また以前のように、皆、必死で働けば、成功(経済成長)すると思い込んでいる人もいます。また、それを悪用している人もいます。
その結果、無報酬労働(サービス残業)、長時間労働、など、悪質な伝統が未だに途絶える事なく、続いています。
日本の人口は下降の一途を辿っています。そうなれば、お金を使う人、すなわち、需要が減少するのは当然です。
今、現在、日本はインフラも全国規模で整い、どこに住もうとも、同じような生活ができます。
そう考えると、既に成熟した社会だと言えます。
現在、日本社会で行われているのは、限られたパイ(需要)の中で、企業同士が競争(供給)しているだけです。
『より、人より多く働けば、豊かになる時代』はとっくに、終わっています。
『労働は美徳だ』という、考えは横暴だということがわかります。しかし、『労働は美徳ではない』と決めつけるのも軽率です。
プロスポーツ選手、音楽家など、夢のある『労働』とされるモノは、時には人を魅了し、人を奮い立たせます。
そして、その『労働の価値』は、個の範囲で影響を及ぼすことはありますが、時には社会現象となり、同一の考え方が、社会全体に広がることも稀ですが、あります。
自分の好きな『労働』ならば、『社会的な価値』まではいかなくても、自分の中で『労働の価値を』見出すこともあります。
結局のところ、『労働の価値』というのは、個々の感情、感覚、思考により決定します。
『労働』には、『社会的に価値のある美しい性質』なんてモノは存在しません。存在するとすれば、個がそれそれに抱く『労働の価値』に過ぎません。
ある人にとっては、『無価値で意味のない労働』。しかし、別のある人にとっては『非常に重要で掛け替えのない労働』でもあります。
さて、皆さんは自分の『労働の価値』はどのように感じているのでしょうか?
ちなみに、欧米では『労働は罰』という考え方が根付いています。
アダムとイブが禁断の果実を食べ、その結果、神様により『労働という罰』を命じられた事に由来し、『労働は罰』であるという考えが根づきました。