2年前。父を亡くした涼介は、父の友人である間庭信久の自宅兼バイクショップに寄宿していた。間庭は父の秘密を知る数少ない人物であった。かつての家を飛び出したものの行き場のなかった涼介は、仕方なしに間庭のもとを訪ね、少しの間でいいからここに置いてほしいと頼んだのである。間庭も事情を知っていたため、快く彼を受け入れた。豪放磊落な性格は父とよく似ていて、涼介のさびしい心を多少は埋めてくれた。それに、この店は父が整備士として勤めていた場所でもあるので、あらゆるものに父の気配を感じていた。父が使っていた机も、工具も、そしてツーリング仲間と写っている写真もすべて、父がここにいたのだと常に語りかけているようであった。
 涼介はこの店の2階に起臥していた。あの日こっそり持ち出した父の骨の入った壺は、常に枕元に置いて毎朝毎晩語りかけていた。訝しまれぬように繕っていたのでおそらく間庭には分からなかっただろうと思うが、実際はどうだったのだろうか。
 とにかく、父の働いていた場所に落ち着けた彼は少しずつ元気を取り戻していった。けれど、本来の快活な性格にはしばらく戻ることはなかった。間庭は父親のように接してくれたし、なにかと援助をしてくれた。おかげでようやく普通自動二輪免許を取得することもできたし、父のバイクから取り外した特殊なハンドルをXR250に取りつけることもできるようになった。それでも、彼は心からの笑顔を見せることはなかったのである。間庭もそれをずっと気がかりであった。
 本当は、木佐貫家に身を寄せるのが良かったのだろうが、涼介にはそれができなかった。父の葬儀以来、慧がなにかと自分を避けようとしているのを感じていたのである。慧は自分に会いたがっていない。自分と会うことを恐れている。どうしてか分からないが、自分は彼の近くにいてはいけないのだ。そう感じたのである。そして、木佐貫家で暮らせないと思った1番の理由は、あの家族はなにかを隠していると知っていたからだ。生まれてからずっと長い付き合いをしてきたし、もう1つの家族と慕っていても、本能的にあの家族に違和感というのを抱いてきた。これは、涼介が慧に対して抱いている疑念と恐れと同じで、あの家で暮らしていたらいつの日か、自分はきっととんでもない秘密を知ってしまうのではないかと思っているのである。自分の踏み込んではいけない領域に足を入れてしまうのではないかという危惧が、あの家にはあった。だから自分は住み慣れた故郷を離れ、ここへ来たのだ。父という保護者を亡くし、自分1人でその秘密に立ち向かえるような勇気を彼はこの当時まだ持っていなかったのだ。
 涼介は、時折店の手伝いをしたり、整備士の勉強をしたりしていた。シグムントのベルトは常に持ち歩いていたが未だに使ったことはなかった。怪物と遭遇することもなかったし、このときは今ほど積極的に被害についての情報収集をしてもいなかったのである。いや、その情報に触れないように過ごしてきたのだ。仮面ライダーとして戦うことに憧れてきたが、その覚悟は彼になかった。父の復讐を誓っても、仇敵と戦うほどの勇気も気力も湧いては来なかった。ただ、平凡な生活を望んでいた。生前の父の匂いの中で、父のような整備士になれればとぼんやり思って過ごしていた。今でも時間があるときは勉強をしている。しかし、これが本当に自分のやりたいことなのか今でもわからない。父に憧れて、父の好きなものもやることもなんでも真似してきたが、涼介のなりたいものは必ずしも父のやっていたことと一致しないと気づきはじめたのである。
 生きているのか死んでいるのか分からなかった。間庭は親切だし、客に感謝されるのは嬉しい。オイルと鉄の匂いに囲まれた生活は昔を思い出させるものであった。父の生きていた痕跡も残っている。シロオカメインコのメルは依然として元気にビャアビャア鳴いたり時折慰めるように歌ってくれたりする。それでも、彼はぼんやりと暮らしていた。しばらく笑うことも泣くことも忘れていた。
 紅葉が枯れ落ちて、遠くに望む山は冬へとその表情を変えつつあった。メルは丸くなってじっとしていることが多くなった。涼介は前の晩に部屋に入り込んだ小虫を見つめていた。寒さで体がうまく動かないのか、小虫は机の上で足を縺れさせるように転んではまた立ち上がりを繰り返していた。そのうちころんと倒れるとあっけなく死んでしまったようだった。涼介は死骸を摘み上げ、窓から捨てた。小さな死骸はたちまちどこかへ吹き飛ばされていった。ふと見れば溝に、ほかにも虫の死骸がたくさん詰まっていた。
 涼介は階段を降りて、店へ出た。今日は定休日でやることがない。ソファにふんぞり返って煙草を吸っていた間庭が彼に気づいて「おう」と声を上げた。
「あのさ、ちょっと走ってくる」
「おう、気ぃつけてな」
 短い言葉を交わして、涼介は黒いヘルメットを持って外へ出た。どこへ行くかなんて決めていない。ただ、気の向くまま走るのだ。荒野をわたる風ひょうひょうと。ひとり行くひとり行く。
(仮面ライダー)
 涼介はその単語をぽつりと呟いた。昔から都市伝説として語り継がれてきた伝説のヒーロー。悪の怪人を打ち倒し、ひそかに平和を守ってきた正義の使者。しかし、今はいない。敗れたのだ。怪人の手で倒されたのだ。ヒーローは絶対に負けることはない。必ず勝つのだと根拠もなく信じてきた。だが、それが覆されたのだ。最悪の結果として眼前に突き付けられたのだ。無敵のヒーローなんか存在しない。涼介は父の死を悼むと同時に、どこか裏切られた気持ちすら心の中にあった。しかし、父を否定することはなによりも彼にとって恐ろしく、そのことを考えないようにしてきた。父を否定するのは、自分の今までも、そして自分そのものの存在をすべて否定されるような気がしたからだ。しかし、この敗北は事実としてたしかにある。自分は、一体これからどうしたらいいのだろう。目標も夢も打ち破られ、なにもなくなった自分は果たして生きている意味があるのだろうか。
 涼介はあてもなく走り続けた。空をアキアカネの群が流れていた。収穫の終わった田圃が寂しく続く道である。民家の庭にビワの花が小さく咲いているのを横目で見て通り過ぎた。田舎はどこもよく似ていると涼介は思った。思わず知らずこういったところへ足が向いてしまうのは感傷のためだろうか。小さな子供が遊ぶのをやめて、通り過ぎる赤いXRをもの珍しそうに眺めていた。
 ずいぶん遠くまで来てしまった。帰り道が分からないかもしれない。それでも構わなかった。地の果てまで、この世の終わりまで。どこまで行ってもいい。帰る場所はもはやない。どこにもないのだ。秋風は冬に向かって吹いている。
 無心に走り続けた涼介を、不意に現実へ引き戻すことが起こった。林道を抜けた先でのことである。古風な造りの家が眼前に現れた。木造2階建ての家屋は、自分が住んでいた家を思わせる雰囲気を持っていて、彼は思わずバイクを停めていた。こういった造りの家も田舎に比較的残っているものだから珍しいものではなかったが、涼介の目を引いたのは取ってつけたように作られたガレージのためであった。半開きになったシャッターからは、バイクの前輪がちらりと覗いていた。涼介はXRから降りると、そっと歩み寄ってその家を眺めた。住人に見つかって不審がられやしないかと思ったが、それでも気になったのである。ああ、ますますあの家にそっくりではないか。涼介はふしぎな感慨が湧いてきて涙が眼に溢れていた。今にも父があのガレージから出てきてにっこり笑いかけてくれそうだった。
 ああ、2度と戻るまいと決めていたのにこんなに恋しいとは。しかし戻ったところで待っていてくれる人はどこにもいないのだ。いくらあの場所に帰ったとしても「おかえり」と言ってくれる人がいないならば、意味がない。同じ場所でも、同じ場所ではない。もうあの家は父とともに死んでしまった。ただの廃屋だ。帰ってもあそこは涼介の家ではない。そんなことは分かっているのだ。そんなことくらい、分かっているのだ。自分が1番、だれよりも……。涼介はごしごしと眼を擦った。赤の他人の家の前で泣くなんて、不審人物もいいところだ。しっかりしろ、情けないぞ。自分を叱咤しつつも、涼介はなおも、自分の家の面影を映すこの家の前に立ち尽くしていた。
 庭でヤツデが白い花を揺らしていた。家屋はしんと静まり返っていて人の気配はしない。干しっぱなしの洗濯物や、きちんと手入れされた花壇といい住人の生活臭を漂わせているのに、存在を感じさせない。その上、不用心にも引き戸式の玄関は開け放たれている。しばらく懐かしさに浸っていた涼介であったがふとそのことに気づいた。まあ、父でさえ鍵をかけ忘れることもあったし、夏なんか家じゅうの窓を開け放していたし。考え直したらよく泥棒が入らなかったものだ。田舎だからといっても泥棒はもちろんいるし、物騒なのは都会と変わらない。町内でもあそこまで不用心なのは我が家くらいだったろう。それに、たとえ父と似た気質の人がここに住んでいたとしても、この寒いのに玄関を開けっ放しにしているのはおかしい。
 しばらく考えてからそっと敷地に足を踏み入れた。〝経験上〟このような状況に妙な胸騒ぎを覚えたのである。
 人がいたなら、無礼を詫びるし、なんだったら同じバイク好きだろうからバイクが気になってとでもなんでも言えばいい。見たところ、あれは隼だ。隼なら間庭の愛車と同じだ。それなら会話も弾むだろう。息を殺して、玄関まで行き着くとそっと中を盗み見た。木枯らしが廊下を駆けていくばかりで、ひたすらに静謐である。涼介はこのまま帰ろうかと思った。どうしてわざわざ他人の家に上がり込む必要があるのかと思った。
「ごめんください」
 思い切って彼は声をあげた。返事があったら適当にやりとりをして帰ろうとしたのだ。ところが返事がないので困った。涼介は再び考え、さんざん迷った挙句、とうとう腹を決めて上がり込んだ。もしも住人が昼寝でもしていたらどうしよう。そうしたら、確実に自分は泥棒扱い、そうでなくても不法侵入である。どう弁明しようか。しかし、それでもここに踏み込まねばならないと感じていた。それは、〝長年〟の勘のためであった。胸騒ぎは収まらない。
 ぎいぎいと古い床板が悲鳴をあげた。涼介はドギマギしながら薄暗い家の中を歩く。こんなに心臓の鼓動を感じたのはいつ以来だろうか。自分の体の血の流れを感じたのもいつ以来だろうか。なぜだか知らないが、彼はここにきて急に自分が生きていることを思い出した。湧き起こる好奇心と本能的恐怖心が、彼の死んだような心を刺激したのである。体はびりびりと痺れ、脳が心に呼びかけるのだ。ここにいては危ないと。しかし、好奇心が彼の体を突き動かした。この不思議な疑惑の正体を確かめたかったのだ。
 涼介は息を殺してそっと角を曲がった。曲がった先の襖は僅かに開いていた。心なしか嫌な臭いが漂っていたので、彼は鼻を押さえた。生臭い臭いであった。どきりと心臓がひときわ大きく脈を打つ。嗅いだことのある嫌な臭いである。彼の予感は的中しつつあった。早鐘を打つように心臓の鼓動が早くなり、彼の脳に警鐘を鳴らす。戻れ、戻れとしきりに訴える。それでも、彼は恐る恐る覗き込んだ。これは好奇心のためなのか、それとももっと違ったもののためなのか分からなかった。
 襖の隙間から、畳に投げ出された人間の腕が見えた。ひっと引き攣った悲鳴が漏れて、慌てて口を押える。禿げかけた畳には茶色く変色しつつある血がぶちまけられていたのだ。そして、がさごそと物色する音が絶えず聞こえてくる。何者かがいるのだ。早く戻れ。本能が叫んだ。だが、体が動かない。恐怖のために竦んでしまったのだ。どうする。警察に知らせるべきだろうか。そうに決まっている。早くここを出て公衆電話を探して通報しなければ(当時涼介はまだ携帯電話を持っていなかった)。がくがく情けなく震える足を動かし、引き返そうとした。ところが、彼の足はガタンと背後の棚にぶつかってしまった。ぐらぐらと棚は揺れ、1本の大鋏が大きな音を立てて床へ落ちた。しまったと思ってももう遅い。勢いよく襖が開け放たれると、大きな猫に似た顔が眼前に飛び込んできた。ぎらぎらとした黄土色の目、凶悪そうな白い牙が薄暗い室内にはっきりと浮かび上がった。
「なんだきさま。帰ったと思ったら上がり込んできたのか」
「うわあ!」
(ワンダラーだ!)
 涼介は震えあがった。人間による強盗殺人とばかり思っていたのに、まさか怪人と遭遇するとは夢にも思っていなかったのだ。父といるときに遭遇したことは幾度もあるが、1人のときに遭遇したのはこれが初めてであった。しかも、恃みの父はすでに亡く、今の涼介には立ち向かう術はない(と思い込んでいた)。がたがたと震え、情けなくへたり込んでしまった彼を見下ろして、怪人――ジャガーワンダラーは鼻を鳴らした。
「フン、情けないヤツめ。邪魔をする気がないならとっとと立ち去れ。俺は忙しいのだ」
 少年の怯えぶりに殺す価値もないと判断したのか、ジャガーワンダラーは再び部屋の物色を始めた。涼介は自分を殺す気のない怪人に安堵したが、それが去ると次第に酷い屈辱を覚え始めた。一体、今自分はどれほど情けない顔をしていたのだろうか。人を殺すことを厭わない凶悪な怪人にすら殺す手間を惜しませるほどに、自分は酷い臆病者に見えたというのか。勇猛果敢な正義の英雄と驍名を歌われた父の子だというのに、このような醜陋を晒しているのは一体どういうことだ。幼いころ、あれだけ怪人どもを打倒してやると息巻いていたのに、いざこうなれば逃げることすらできない。自分の不甲斐なさ、情けなさ、弱さ、そして現実を眼前に叩きつけられた気がして、涼介は怒りに震えた。自分自身に対して憤った。しかし、それでも膝は震えて立つ力もない。いっそのこと、さっさと殺してくれればこんな思いをすることもないのに!
 もしも、これが平生の涼介なら無謀と知っていても果敢に挑みかかっていたことだろう。なぜなら、必ず父が駆けつけて颯爽と怪人を倒してくれるからだ。無理をするなと叱られつつも、よくやったなと褒めてくれる父がいたのだ。しかし、その父も怪人に敗れた。あの忌々しい蟷螂の姿をした怪人によって殺されたのだ。父でさえ負けることもある。命を奪われることもある。父の敗北は涼介からなにもかもを削ぎ落とした。立ち向かう勇気どころか逃げる勇気さえ。父がいないのにどうして生身の自分が立ち向かえようか。絶対無敵と信じた父すら敗死した未知の怪人相手に勝てるはずがない。きっと殺されてしまう。死んだように生きてきた彼も命が惜しかった。それが堪らなく情けなかった。
 怪人は苛立ちながらも依然として部屋を荒らしまわっていた。なにかを探しているのだろうか。これ以上関わらなければ命を取られることもないかもしれない。目の前に敵がいるのになにもできない歯痒さを感じつつ、そっと立ち上がろうとした。怪人の様子を窺うように再度部屋を覗き込んだ。そうして再度悲鳴をあげそうになった。ジャガー怪人の足下には中年の男の死体が転がっていたのである。首を噛み千切られたのか、てらてらとした赤い肉がむき出しになり、なにやら白いものすら見えた。思わず胃から込みあがってくるものを飲み込み、もう少し中を覗いてみた。男の死骸が手を伸ばした先に、もう1本白くて細い手があった。女の死体であった。小さな少女を抱えたまま事切れていた。少女も死んでいるのか、ぴくりともしない。涼介は心臓を貫かれたようであった。この怪人は己の欲望のために罪もない一家を皆殺しにしたのだ。まだ幼い少女すら手にかけたのだ。
 ああ、この家族にはどんな幸福が待っていたのだろうか。ああ、この少女はどんな夢を持っていたのだろう。父と母はどんな夢を少女に託していたのだろう。これから広がる彼らの未来を、残忍な怪人が踏みにじったのだ。
 臆病な涼介の心にふつふつと沸いてくるものがあった。それは持前の正義の心であった。悪に対する怒りであった。死んでしまったと思っていたそれらが眼前の悪事のために息を吹き返したのだ。それだけではない。わずかばかりにこの家族に自分を重ねていた彼は、再び父を――いや、自分の家族を怪人に奪われたのだ。涼介は憤った。そうだ、このままでいいはずがない。この怪人を許していいはずがない。もし、ここで放っておいてはまただれかが殺されてしまう。だれかが涙を流すことになる。自分と同じ悲しみを背負うこととなるのだ。涼介の拳に力が籠る。凍てついていた心が怒りの炎によって融けていく。
「うおおお!」
 涼介は自分を奮い立てるように吼えた。力の入らなかった両足も力強く床板を踏み締めていた。涼介の叫びに驚いた怪人は咄嗟にこちらに振り向いた。その横顔に涼介の怒りを籠った拳が叩き込まれた。
「このっ! せっかく見逃してやろうと思ったが……!」
 ジャガーワンダラーは僅かに怯んだだけであった。それでもがむしゃらに涼介は挑む。怪人への脅威も死の恐怖もなにも感じなかった。ただ、戦った。怪人への怒りのままに戦った。父がいなくても、それがどうしたというのだ。自分は仮面ライダーの息子だ。戦ってやる。たとえ命尽きようとも。
 3発目の拳はジャガーによって受け止められていた。そのままジャガーは涼介の腕を掴むと、障子に向かって彼の体を叩きつけた。もろい格子は砕け散り、彼の体は家の外へ投げ出された。
「うっ!」
 したたかに腰を打った。酷い吐き気が上ってくる。叩きつけられた衝撃で体が痺れていた。ここまでなのだろうか。このまま殺されてしまうのだろうか。少しは戦えた。父は褒めてくれるのだろうか。
「金にならねえことはしたくないんだよ!」
 ジャガーが窓を砕いて涼介を追ってきた。もはや死を覚悟した涼介の目の前には、鞄から飛び出したと見えるシグムントバックルが落ちていた。太陽の光を受けて、紅玉は爛々と輝き、1対の翼を模した装飾が誘うように金に光った。涼介は心臓が脈打つのを再び感じた。それは、昂りのためであった。自分は、ずっと仮面ライダーになりたかった。弱い自分はずっと強いヒーローに憧れてきた。いつか父のように戦えればとずっと願っていた。将来、父から認められて正式に後継となることを夢見ていた。
(オレが、仮面ライダーに……?)
 追いかけ続けた夢であったはずなのに、涼介は戸惑われた。自分が仮面ライダーとして実際に戦うことは、あまりにも現実味がなかったのだ。想像の中では戦っていたが、それはヒーローに憧れる少年が思い描いていた夢にすぎない。しかし、現実として、ヒーローとなる機会が望まない形で与えられたのだ。
「とっとと死にな!」
 ジャガーが迫る。もはや、躊躇している時間はない。涼介は手を伸ばした。シグムントバックルに触れた。瞬間、全身に熱いものが駆け巡るのを感じた。思わず手を放してしまいそうになるほどの威圧感がバックルから発せられた。紅玉が真っ赤に燃えあがった。
(オレはなる。仮面ライダーに! 戦ってやる、仮面ライダーとして!)
 涼介は再び咆哮した。体を起こすと、ジャガーの鋭い爪を素早い身のこなしでかわし、とうとうシグムントバックルを腰に翳した。バックルから紅い閃光が迸り、彼の細い腰に装着された。どくんどくんと鼓動が体中に反響した。涼介は息を大きく大きく吸い込むと、ついに叫んだ。
「変身!」
 途端に大風が吹き荒んだ。菱形の紅玉から火の鳥が勢いよく飛び出して炎の羽を散らし、涼介を観察するようにぐるりと一周すると、その体めがけて飛び込んだ。反射的に顔を覆う涼介。熱波が彼の痩身を包み込んだ。
「うわああ!」
 全身が焼かれるように熱かった。耐え兼ねて逃げてしまいたくなった。それでも、涼介はぐっと堪えた。父はいつもこんな思いをして変身をしていたのだと思うと耐えられた。父にできることを自分ができないはずがないと。
 真っ赤な視界の中で、涼介は自分の体に鎧が装着されていくのを見た。紅い炎の鎧を。燃え滾る血の色の鎧を。
 炎を切り裂いて、鎧を装着した涼介が現れた。鳥を模した仮面の、大きな黄金の複眼が燦然と輝いた。
 父が変身していた仮面ライダーより、その鎧はずっと紅かった。それは涼介の怒りの色なのか、それともあの日父が流していた血の色なのか。
 秋天一碧。烈風忽ち収まり、風穏やかに凪ぐ。仮面ライダーは顔を上げると、勇んでジャガー怪人に挑みかかった。
「きさま、仮面ライダーだったとは!」
 繰り出される拳は驚いているジャガーの左頬を砕いた。それは、とても嫌な感覚であった。拳がメキメキ顔にめり込んで、ジャガーの瞳が飛び出さん限りに大きく見開かれた。
「ぐああっ!」
 殴られた衝撃で地面に倒れるジャガー。涼介は自分の掌を見た。全身から力が沸き上がってくるのを確かに感じた。戦える。自分は仮面ライダーとして。
「やってくれるな!」
 ジャガーは立ち上がると、素早く駆け出した。怒りの猛攻が始まった。次々繰り出される鋭い爪を避けるのに精一杯だ。力を手に入れたと言っても、戦いについてはまったくの素人である涼介は一気に防戦へと追い込まれていた。反撃の隙を窺うことはできない。時折斬撃が鎧を掠めた。そのたび激しい火花が散る。体に痛みは感じないものの、怪人に反撃を許されないほどの攻撃を受け続けていることは、再び彼の心に恐怖を生じさせた。いつまで防げるとも限らない。もしも仮面ライダーの姿で敗北してしまったら、それこそ恥さらしだ。父に合わせる顔などない。涼介はなんとか怪人の腕を掴んで、鳩尾に蹴りを叩き込んだ。
「ぐあっ!」
 僅かながら怯む怪人。反撃の好機だ。涼介は短剣の柄に手をかけた。だがどうしてか手が震えた。これを使うことは父を裏切ることと同義であると感じたからだ。そして、これから1つの命を奪うことを意味していた。自分はとうとう怪人を手にかけるのだ。
「死ね!」
 ジャガーは地面を強く蹴ると、跳び上がった。上空から覆い被さるように襲ってくる。
「っわあ!」
 涼介はほとんど反射的に、ついぞ父が使ったことのなかった短剣を抜いた。鞘に収まったままの短剣は錆びついてなどおらず、美しい紅の輝きを放っていた。
「ぐあ!」
 ずんと重くなる右腕。刃に食い込んでいく肉の感触。怪人の体がゆっくり前のめりになって涼介の腕に倒れ掛かってきた。おそらく、怪人が倒れるまではほんの一瞬の出来事であったろうが、それが彼にとっては恐ろしく長い時間のように思われた。剣越しに、1つの生命が失われていくのが味気なく感じられた。瞳孔が開き、怪人の体がびくびくと痙攣したがすぐにそれも収まり、ぐだりと鎧の上に体を投げ出していた。炎の剣は見事に心臓を貫いていた。傷口から、香ばしい肉の焼ける臭いが漂っていた。
「うっ……」
 彼は剣を手放した。崩れるように圧し掛かってくる死骸。這い出るように逃げると、ほぼ同時にジャガーワンダラーの体から白い炎が噴き出して、怪人の体は灰となって秋風に攫われていった。涼介の体を守っていた鎧は紅い羽根となって崩れ落ち、彼はしばらく惘然と座り込んで、灰が残らず消えていくのを眺めていた。
 初勝利の爽やかさなどなかった。憎き怪人の1匹を倒した喜びなどなかった。涼介は自分の両手を見た。必死に服で拭った。怪人の血がこびりついている気がしたのだ。
 我を取り戻した彼は、逃げるようにXRのもとへ戻った。人が来る前にこの場を去りたかったのだ。
 間庭の家に逃げ帰ると、自室に駆け入り敷きっぱなしの布団に倒れ込んだ。勝利の感慨に酔うことはできなかった。自分がとうとう恐ろしい罪を犯してしまったと思ったのである。自分はついに殺したのだ。1つの生命をこの手で奪い取ったのだ。憧れの正義の戦士となったはずなのに、この身を酷く穢してしまったようであった。布団の上でウサギのように丸くなって震えている彼を、メルは心配そうに見守っていた。
 しばらく彼の頭の中で、怪人の死骸と、民家で見つけた親子の哀れな遺体とがぐるぐる回っていた。怪人の醜い死に顔と、無念そうな少女の父親の死に顔が交互に浮かんだ。あの怪人を倒したことで、3人の魂は報われたのだろうか。あの怪人を倒したおかげで、だれかの命が助かったのだろうか。無意味な死を遂げることもなくなったのだろうか。
 もしも、自分が戦わなかったら、だれかが死ぬことになる。自分が動かなければ、人々は自分と同じ思いをする。けれど、ほかの人たちは戦う手段を持っていない。今、あの怪人たちと戦えるのは、自分だけなのかもしれない……。
 橙の夕日が狭い物置部屋を染めていた。枕元の骨壺と、その上に置いた封筒を見た。この封筒は、今年の涼介の誕生日にXRの上に置いてあったものである。発見したはいいものの、未だ開封することはしていなかった。涼介は今改めてその封筒に手を伸ばした。縦長の茶封筒で、煤にまみれてくしゃくしゃになっている。表には急いで書いたように掠れている「涼介へ」という文字がある。そっと開くと、白い便箋が1枚入っていた。よく見れば便箋ではなく、メモ用紙らしい。それを開くと、以下のようなことが父の無骨な文字で書かれていた。

 涼介へ 誕生日おめでとう!
 とうとう、きみも16歳になった。幼いころのきみとの約束をようやく果たすことができる。
 きみはいつだって、まっすぐ目標に向かって努力していたね。その目標がこんな父と思うと、俺はいつも少し申し訳ない気がしていた。だけど、とてもうれしかった。
 手紙で書くことではないと思うが、きみはいつも素直で、俺のことを尊敬していてくれたね。でも、それが心配でもあった。もう少し、父さんに反抗してもいいんだぞ。父さんの言うこともやることも必ず正しいとは限らないんだ。なにが正解か、自分自身で見極めることが大切だ。父さんのことを追いかけてくれるのはもちろんとてもうれしいが、自分の道は自分で探すんだぞ。いいね。
 正直、自分で書いておいて手紙でどういったことを書いたらいいか分からない。すまない。だが、ふだん言えないことを伝えておこうと思った。
 しかし、16歳。今はまだできることは少ないかもしれない。けれど、これからきみの人生は充実していくことだろう。ひとりでできることも増えることだろう。バイクはそのための翼になる。きっときみの景色をもっと広げてくれるはずだ。
 あらためて、誕生日おめでとう。これからもきみの成長を見届けられればと思います。
  父より

 手紙というものを書き慣れていない父らしい文だと思った。入れてあるのが茶封筒なのも、便箋代わりにメモ用紙を使っているのも、いかにも父らしいと思った。こういうときくらい、ちゃんとした便箋を買って書けばいいのに。それにしても、バイクの上にはわざと置いておいたのだろうか。普段恥ずかしいほどかっこいいセリフを言ってのけるけれど、父はけっこう照れ屋だ。もしかしたら、直接渡さないで、ああして涼介が手に取ってくれることを期待して置いておいたのだろうか。変なところで素直でないのだから。などと考えて涼介は笑った。笑いながらも、その大きな瞳には涙が溢れていた。最初で最後の手紙なのだから、ちゃんとしたらいいのに。
「父さん……」
 改めて、父がいなくなってしまった事実をしみじみと噛みしめた。
 どうして死んでしまったの。どうしていなくなってしまったの。まだまだ自分1人では戦うことすらままならない。あんな形で夢を叶えるなんて望んでなんかいなかったのに。どうして自分を遺していなくなってしまったの。
 そうした思いが涙とともに零れた。その一方、涼介は再び父に触ることができた気がした。灰となった父の体を抱きしめるよりも、父の匂いで溢れる仕事場にいるよりも、より父を身近に感じられた。今の自分の頭をそっと撫でてくれたようであった。
 秋の日は釣瓶落としという通り、部屋はあっという間に夜の闇に染まっていた。涼介は寝床の中でしばらく父の手紙とシグムントバックルを抱きしめて考えごとをしていた。
 父は、もしかしたら息子に仮面ライダーにはなってほしくなかったのかもしれない。涼介は父の苦悩の顔をあまり覚えていない。父はそれを見せないように努めていたのだろう。息子に無用な心配をかけないように。だが、涼介は知っている。1度だけ父の苦悩を垣間見たことがあるのだ。
 いつのことだったか分からない。夜中になんとなく目が覚めてトイレに行く途中、居間と廊下を仕切る扉から光が漏れているのを見た。父がまだ起きているのかと思って声をかけようかと思ったが、人の声がするのに気が付いてそっと息を潜めた。相手は聞き覚えのある声で、きっとあれは慧の父、木佐貫惣次郎であっただろう。
「俺は時々思うんだ」
 父の疲れ切った声を涼介は珍しそうに聞いた。どんなときでも父は明るく元気に振る舞っていていたので驚いたのである。
「こんな手で涼介に触っていいのかと。涼介を育て続けていいのかと」
「なにを言うんです、貴方らしくもない」
 惣次郎らしき男が言った。
「そうだな。俺らしくもないな。だが、不安なんだ。俺のしていることはあいつらと同じことだ。そんなことに涼介が憧れていると思うと……」
「そんなことはないでしょう。少なくとも、貴方は人々を守るためにしているのだから。正直、貴方にこんな尻拭いのようなことをさせている僕たちこそ、貴方たちの傍にいるべきではない」
「ソージ。そんなことを言うな」
「ですが、本当のことです」
 2人の父親はそうして深い溜息を吐いた。涼介はなんだか聞いてはいけないことのような気がして――これ以上聞いていたら思いもよらぬ恐ろしいことが飛び出してきそうでそそくさと立ち去った。
 絶対無敵の父でも、悩むことがある。幼いころから完璧だと信じてきた父も、苦しむことがある。そして、そんな父でも敗れることもある。父は完全無欠の人間ではない。それに失望などしないが、ぼんやりとした思いが涼介の胸に過った。
 父も初めて仮面ライダーとなって怪人を殺したとき、同じ思いをしたのだろうか。同じように悩んだのだろうか。苦しんだのだろうか。それでもこの身を血で穢すことを厭わず、高潔な戦士として戦ってきたのだろうか。このことは、今でも涼介の中にある疑問であるが、それに答えてくれる人はもういない。
 階下から、間庭が夕食の準備ができたことを告げる声が聞こえた。涼介は返事をせずに寝返りをうった。心なしか体が熱く、怠かった。
 目が覚めると、朝の4時であった。晩秋であるので山肌がわずかに白く浮きあがっているのが見える程度で、ほとんど夜といっても変わりはないほどに暗かった。涼介は酷い喉の渇きを覚え、覚束ない足取りで階段を降りた。頭もぼおっとして熱に浮かされたようである。唇は乾燥して皺くちゃになっていた。台所にたどり着いて、水を飲む。水分が体中に行き渡っていくのを感じると、今度は空腹を覚えた。振り返った先の食卓には昨夜の夕食がラップをかけて置いてある。間庭は妻と離婚するまで家事はほとんどしたことがなかったという。だからか、彼の作る料理はいつも焼いただけの魚か肉か、面倒なときはインスタントラーメンである。作った料理は酒飲みの彼の味覚に合わせてやたらしょっぱい。だから涼介はあまり好きではないし、時々精神的にゆとりのあるときは自分で作るときもある。涼介の父貢は、間庭のように昔気質で家事なんか妻に任せているように見えなくもないが、実のところ離婚前から当然のように母と分担して家事をこなしていたし、涼介と2人になってからは自分で工夫を凝らしてさまざまな創作料理を作ってくれていた。涼介はそんな父に影響を受けて、父が仕事で忙しいときは自分で食事の用意をしたし、いつのまにか父への弁当も作るようになっていた。だから、涼介はそれなりに料理ができるのである。
 さて、腹が減ったとはいっても朝からぶつ切りにされた豚肉を食うのも辛いので、涼介はごそごそと冷蔵庫を漁った。間庭は生鮮食品の買い置きをしない男なので、ほとんどなにもない。仕方がないので食パンを1枚食べた。だが、そのパンが胃に到達するかしないかのあたりで、急に激しい吐き気に襲われてげえげえやってしまった。ほとんど空っぽの胃の中から、先ほど飲んだ水から苦くいやらしい味のする胃酸までなにからなにまで絞り出した。何度も咳き込んで、ようやっと落ち着いたら自分のぶちまけてしまったものを片づけておいた。空腹も忘れて、ぐったり疲れた彼は部屋に戻ろうと急な階段に足をかけた。片づけに大分時間を取られたので、すでに5時を回ろうとしていた。
「おう」
 どたどたしていたせいか、早起きの間庭がいつにも増して早起きをしてきた。涼介は足を止めて振り返った。
「ごめん、起こした?」
「いや、起きようとしてたとこだ」
 言いつつ、間庭は大あくびをし、そのまま便所へと去っていった。涼介は2度寝をしようか迷ったが、体がやけに汗臭いことに気づいて風呂場へと足を向けた。夏でもないのにかなり寝汗をかいていたようだ。まあ、風呂にも入っていないし、昼の服のままであったからもあるだろうが。
 シャワーの湯を浴びると、汗や垢とともにいろいろなものが洗い流されていくのを感じた。それでも、染みついてしまったものはどうしても消えることはなかった。きっと、一生付き合っていくのだろう。
 黴や水垢で白く汚れた鏡で、涼介は己の貧弱な体を見た。この頃、まだ身長は160センチ半ば程度で、体重は40キロをようやく超えたところであった。よくこの体で昨日の怪人と戦えたものだ。こんな細くて少し触れたら折れてしまいそうな少年が怯えていたら、それは怪人だって殺すまでもないと判断するだろう。
 こんな体で、今後もやれるのだろうか。これから身長も伸びる保障もないし、いくら体を鍛えようとも肉がつかない体質であるし。こんな自分が戦っていけるのだろうか。
 風呂を出て、タオルで頭をがしがし拭きながら居間へ戻ると、間庭がテレビ新聞を広げて椅子にふんぞり返っていた。体格のいい男であるから、ただ座っているだけなのに妙にふてぶてしく見えるし威圧感さえある。涼介は幼いころから親しんでいるので慣れているが、この男の厳つさのせいで若い客がなかなか来ないのだろうなと思っている。間庭は涼介が戻ってきたのに気づくと最近かけ始めた老眼鏡を食卓に置いて、新聞を乱雑に畳んだ。
「おう、どうだ。さっぱりしたか」
「うん」
 そんなことはない。まだぼやぼやしたままである。間庭は「そうか」と言って大きな伸びをした。
「お前はただでさえひょろいんだから、しっかり食わねえと。今にミイラみてえになっちまうぞ」
「分かってるよ」
 食べたいのは山々だ。しかし食えないのだと言いたいのを飲み込んで、さきほど食いかけたパンを口にした。今度は吐き気を覚えることはなかった。少しでも栄養を取ろうと苦手な牛乳でパンを押し流すと、ふうと一息。涼介のぶんの豚肉は間庭が平らげたと見えて、肉汁の残った皿が放置されていた。
「そんなもんでいいのか。もっと食いな」
「もういっぱいだよ」
 口直しに茶を飲んで、再び息を吐く。もとから小さい胃がもっと縮んでしまったようである。食べ盛りの年齢のはずなのに、このままでは身長が伸びずに成長期が終わってしまうのではないかと密かに危惧した。
 間庭は茶を口に含んだまま、なにかを思い出そうとしているのかぎょろりとした目を動かした。これはこの男の癖である。しばらくぎょろぎょろと動かしたあと、ごっくんと飲み込んで「ああ、そうだ」と声を出した。
「お前の従姉と連絡を取ったんだが」
「へえ」
 唐突に従姉という単語が出てきて、涼介は少し目を丸くした。脈絡のない切り出しかたもこの男の癖だ。
「お前を引き取りたいんだってよ」
「順繰りに説明してよ」
 そして、急に本題を持ってくるのも悪い癖だ。単刀直入にもほどがあるというものだ。間庭は少し照れたように笑って切り出した。
「いや、お前も俺といるよりはいいと思ってな。お前もこんなオヤジと2人じゃ息が詰まるだろう。それに、こんな昔の臭いが染みついた油臭いとこにいるよりは、こう、若い女といたほうが気分も違うだろう」
「はあ」
 説明下手なのにも困ったものだ。涼介は呆れたように笑った。間庭はそのあとも上手く説明しようと、ごちゃごちゃつけ足したが、いずれも要領を得ないものであった。涼介なりに整理すると、おそらく次のようなことを言いたいのだろう。
 涼介があまりにも元気がないので、どうにかしてやりたいと思っていた。このままここにいても駄目になる一方だろう。たしかに、ここはかつて父親が働いていた場所であり、自宅以外でもっとも父親を感じられる場所であるがいつまでも死んだ人間に縛られ続けるのもよくないだろう。ならば新しい場所が必要である。しかし、彼には頼れる人がほかにいない。そう考えたときに浮かんだのが、貢の兄、つまり涼介の伯父である。貢は実家とはほぼ絶縁状態であったが、唯一兄とは親しく連絡を取り合っていたのを間庭は知っていた。試しに連絡を取ってみたところ、彼の娘である裕美が涼介のことをとても心配していて、そういう事情ならぜひ彼を引き取りたいと申し出たらしい。裕美はそろそろ独立して店を持ちたいと思っていた頃で、涼介に新しい居場所を提供するにはもってこいである。
 本人のいないところでそんな取決めがあったとは。涼介は少し驚いた。そこまで話が進んでいたら、断るのも断りづらい。その一方、自分の中に新しい風が吹き始めたのをなんとなく感じた。新しい場所という響きに、心が躍った。
 その話を聞いて3日後に従姉の裕美がやってきた。涼介の顔を見るなり涙ぐんで「久しぶり」と言った。裕美は父の実家に住んでいた。貢は父親、つまり涼介の祖父と折り合いが悪く家を飛び出して以来兄以外とは実家との連絡を絶っていた。裕美と会ったのは、涼介はほんの1度、祖父の葬式だけである。涼介より7つ上の裕美は、実の弟のように小さな涼介を可愛がり、たいそう気に入っていたようである。貢が兄と電話をしていると、しきりにせがんで涼介と話をしたがっていた。涼介も彼女を姉のように慕い、よく懐いていた。それでも、会ったのはもう10年ぶりで、玄関に立つこの女性がだれなのか分からなかった。かつては黒かった髪を淡いブラウンに染めていて、そのおかげか全体としてふんわりとした優しい雰囲気のある可愛らしい人だとは思った。奥二重の目は貢や伯父に似ていると涼介は思った。それがなんだかうらやましく思えた。
「久しぶり」
 電話口ではあれだけ親しく話していたけれど、いざ会うと少し緊張してなにを話したらいいか分からない。これからこの人と暮らすのかと思うと不思議な感じがした。幼稚園児のころは慧の母である光江に預けられていたこともあったが、女の家族と暮らすというのは涼介にとっては初めてのことである。無論、姉のような存在であるから異性として意識することはないだろうが、それでも戸惑いがあった。
 間庭が涼介の荷物を纏めていた。メルは急に移動させられたのに驚いてかビャアビャア喚いていた。メルを見て、裕美は「可愛いわね」とにっこり笑った。その顔を見て、涼介も少し表情が和らいだ。
「メルって、いうんだ。こう見えてオレより1つ上なんだ」
「へえ、すごいわね。じゃあ、涼介くんのお兄ちゃん? だね」
「うん。オレの兄貴」
 涼介は笑った。自然と緊張も和らいで、なにげなく話ができるようになった。裕美が留学していたこととか、その先であったことだとか。涼介も話の合間に笑顔で頷いて、自分でも高校での思い出だとかを話して聞かせた。それから、慧という友人がいることも。間庭は涼介の笑顔を見て、ほっとしたように相好を崩した。
「おやっさん。……お世話になりました」
 間庭の家を去るときになって、涼介は照れ臭そうに笑った。間庭はその顔に込み上げてくるものがあって、鼻を啜りながら短く不愛想に「おう」とだけ言った。
 裕美の家につくと、新しい木の爽やかな匂いが涼介を迎えた。裕美の父は、涼介の曽祖父が築き上げた会社の現社長で、かなりの資産家である。一人娘が独立する折に拵えてくれたのがこの店である。とは言ってもまだ開店はせず、しばらくは料理や大好きなコーヒーの研究に専念するとのことであった。
 涼介に宛がわれた部屋は裕美の部屋に次いで広く、窓の外には金木犀がちらりと見えた。用意されたベッドに腰をかけ、すうっと息を吸い込む。新しい空気が肺を満たしていった。これから、ここで生活していく。間庭の家から持ってきた整備士の教本を机の上に投げて、再度大きな伸びをした。
 リュックの中から骨壺を取り出すと、日当たりのいい窓辺に置いた。死んだ人間に縛られ続けてはいけない、と間庭に言われたが、連れてきてしまった。しかし、縛られるためではない。ただ、自分の新しい生活を見守ってほしかったのだ。しばらくの間は……。
 続いてシグムントバックルを手に取った。菱形の紅玉が、きらりと光った。
 これから戦うとしたら、自分もまた仮面ライダーを名乗ることになるのは自然なことである。しかし、父と同じシグムントという名のままでいいのだろうか。仮面ライダーシグムントは、父だけの名前である。それでは、自分はなんと名乗ればいいのだろう。
 昔、慧と図書館で北欧神話の本を読んでいたことを思い出した。シグムントはその神話の英雄の名前だというので、いろいろと調べていたのだ。そうだ、そのときにシグムントには息子がいることも知った。名剣グラムを受け継ぎ、さまざまな軍功を挙げた英雄がいたのだ。
「シグルズ……」
 そうだ、それがいい。自分はシグムントの息子、シグルズ。神話のシグルズほど勇ましくもないし、強くもない。だが、その名に恥じぬように強くなれればいい。
「オレは、仮面ライダーシグルズ……」
 自分で呟いて、恥ずかしそうに笑った。決してこれからの戦いが怖くなくなったわけでもないし、相手を殺すことを割り切ったわけでもない。父の死に囚われていることにも変わりはない。
 涼介は窓辺を仰いだ。父の骨壺は、秋の日を受けて白く浮かび上がっていた。