その夜は、美しい満月であった。
 バルコニーへ出ると、月が凍てついた空を照らしていた。この国の言い伝えによると、月が美しく金色に輝くのは月に生えた桂が色づくためだという(もっとも、これは秋の季語である)。幽玄かつ荘厳さを含んだ光。かつて我々を包んでいた光と月光は本当によく似ている。むろんこれほどか細い光ではなく、もっと柔らかで暖かなものではあったが。
「月が綺麗ですね」
 彼女が月に思いを馳せていると、仮面をつけた若い男が声をかけてきた。彼女は振り向くといたずらっぽく笑った。
「こんばんは。こんなお婆さんにお声をかけてくれるなんて、嬉しいわ」
 若い男は仮面の下で微笑んで、彼女の肩にふわりとストールをかけた。牡丹の刺繍が施された手触りの良いものである。彼女は「ありがとう」と穏やかに笑いかけると、長椅子に腰を掛けた。男も隣に腰かけて、やや大仰に肩を竦めて見せた。
「失礼します。それにしても、冷えませんか?」
「ええ、少し。助かりましたわ。わざわざ私を気にかけてくださったの?」
「それと、月を見に来ました」
 男の鳥を模った仮面は月華で金に光っている。彼女は自分の白い仮面を少し直しつつ、彼とともに月を見上げた。フランス窓の向こうには、同じように仮面をつけた人々がワイングラスを片手に談笑しているが、その声も届かない冬の静寂。今宵は、満月の夜に開かれる秘密の集会。だれもが仮面で素顔を覆ってやってくる。仮面の上に仮面をつけて。
「あなた、初めてかしら?」
 老婦人が訊いた。男は頷いて恥ずかしそうに言った。
「今日は父の代理で参りました。ですが、こういったことにはまったく不案内で、不作法を働いてはいけないと人を避けて、ここへ」
「あら、そうでしたの。若い方がいらっしゃるのは最近では珍しいものですから。大丈夫よ、だれもかれもそんな作法なんて気にしちゃいないわ」
 彼女が笑うと男も安心したように相好を崩した。ここにはどこそこの大企業の会長だとか、さらには政治家、各界の要人もいるが、参加者の大半は市井の民で構成されている。小ぢんまりとした貸しアパートで細々やっている貧乏人から別荘を1つ2つ抱えていたり、都内のマンションで悠々自適に暮らしている金持ちまで皆一様に仮面を被っておしゃべりしている。ここでは身分もなにも関係ない。そんな人間社会の立場なんて忘れて、だれもかれも郷愁に酔い、焦がれているのだ。「仮面舞踏会」というとどこかいかがわしい香りも漂うが、その実、故郷を懐かしむ者たちの同窓会のようなものである。
 噴水が月の光を受けて光っていた。まるで天に向かって大輪の花を咲かせるように。水飛沫も甘い金に染まって、ひらひら散っていた。風の渡る音は穏やかで、微かに漏れるメロディを遠くに連れて行くようであった。遠く、遠くへ。空のかなたへと。
「なれし故郷を放たれて夢に楽土求めたり」
 しばらく静かに月を眺めていると、老婦人はおもむろに口ずさんだ。年のせいか弱弱しい掠れ声であったが、その一節は冬の夜に溶け入ることはなく、彼の耳の中でじわりと悲しい響きを持って染み入った。
「流浪の民、ですね」
 男が言った。婦人は張りの失われた唇を噤むと、静かに頷いた。
「私、この歌が好きなの。初めて聴いたときどうしようもなく悲しくなったけれど、でも、好きなのよ。きっと私だけではないでしょう。ここにいる皆、きっと」
 婦人は深い青の目で館の中を見た。だれも楽しげに語らってはいるが、その間に漂う郷愁は悲愴である。薄れていく故郷の香りを抱きしめ、人間の社会に飲み込まれていくしかできない無力さ、歯がゆさ。それでも、自分たちは突如故郷を奪われる苦しみを知っているから、人間たちから故郷を奪うこともできない。侵略して新たな国家を立ち上げたところで、故郷が帰ってくるわけでもない。
 時に人間と心を通わせられるが、それでも異形の怪物であることを知られてはこの人間の社会からも追放されてしまう。仮に受け入れられたとしても、流れる時はあまりにも違いすぎている。人間の寿命は自分たちよりずっと短い。その悲しみ、苦しみ、すべてを味わってきた仲間たち。男は翠の目で、老婦人の物悲し気な横顔を見つめていた。
「あなたはこちらのお生まれよね」
「はい」
「それなら、もしかしたらあまり分からないかもしれないわね。まだ、お若いことだし」
 老婦人の語り口調は穏やかで皮肉らしい含みはなかったが、彼を拒絶するような響きがあった。彼はカラーに手を入れると、シャツの下から翠の石がぶらさがったネックレスを取り出した。
「いいえ。もちろん故郷はこの国ですが、それでも自分の両親が暮らしていた国のことを思うことはあります。それに」
 白い手袋を嵌めた手で石を握りしめつつ、薄桃の唇を綻ばせた。
「月の光は、とても懐かしい」
 彼は静かに笑って婦人の手に自分の手をそっと重ねた。婦人は少女のような嬌羞を見せ、戸惑ったように彼を見つめた。
「ぼくは、あるひとの故郷を奪いました。帰るべき家も、帰りを待つひともすべて奪いました。そんなぼくがこのようなことを言う資格はありませんが、故郷を失った悲しみは理解できますし、ぼく自身故郷を失うことを何よりも恐れているのです」
「そう」
 婦人はシルクの手巾で目尻を軽く抑え、再び月を見上げた。
「月は私たちの太陽。弱弱しい光の世界。それでも、あの国は幸せな国でしたわ。やっと民族がまとまって、陛下も猊下もこれから国を治めてよくしていこうとしていた矢先のこと。どうして私たちがこのような目に遭わなければならないのかと嘆いてばかりだったわ」
 彼は、自分の「故郷」を知らないので彼女のように想いを馳せることはできない。空が何色をしているのか、どのような花が咲いているのか、人々がどんな歌を歌っていたのか、想像することすらできない。それでも、どこかにある故郷を思うと自然と恋しくなる。
「もう一度、あの空を見ることは、きっと私は叶わないでしょうね。もうお婆さんだもの」
 寂しげに微笑む彼女の表情には諦めよりも口惜しさの色が色濃く表れていた。
 館から漏れる音楽が変わった。見ると人々は互いに手を取り合って踊っていた。白いドレスを翻す乙女、ぎこちなく踊る紳士。彼は長椅子から腰を上げると、彼女に会釈をして手を差し出した。
「ぼくと踊っていただけますか、お嬢さん[フロイライン]
 老婦人はぽっと顔を赤くして俯いたが、やがて手を彼の手に重ねた。
「私でよければ、よろこんで」

* * * *

 満月の夜は、好きだ。ハイエナワンダラーコベライトは煙草を灰皿に押し付けながら、柔らかい息を吐いた。柄にもないと自分で思うが、月を見ると心が和らぐのだ。それはきっと自分だけでなく、ワンダラーはみなそうなのだろう。しかし、コベライトは情けない郷愁を振り切るように、今夜は基地での満月会を抜け出して来たのである。口では感傷的すぎる、下らないといつも言っているがそんな彼でも故郷を恋しいと思う心もある。それがたまらなく情けないので切り捨てたいと思っているが、切り捨てられない証に最近のワンダラー連中の軟弱さを嘆きかつての慣習を懐かしんでいるのである。
「そういえば猊下の姿を見かけませんでしたね」
 車を運転しているカルセドニーが言った。コベライトは気怠い声で言う。
「どーせ引きこもってんのさ。毎日毎晩飽きねェなあのオンナも」
 猊下とは、クレインワンダラーウパラのことである。彼女は実質的に組織を取りまとめているボスであり、現在はすべてのワンダラーの長でもある。しかし、彼女が表に出ることは滅多になく、基地に作られた神殿で1日を過ごしているのだ。むろん指導力やほかのワンダラーに対する影響力は彼女の右に出る者はいないのだが、彼女自身の本業である神官という立場から神殿を離れることが難しいのである。理由はほかにもあるのだが。
「最近は神殿も解放しませんしねぇ」
「ま、仕方ねェっちゃあ仕方ねェがな」
 コベライトは2本目の煙草を銜えた。以前までは満月の晩には必ず神殿を解放していたのだが、今ではその扉は閉じたままである。出入りできるのはウパラただ1人。ほかのワンダラーが立ち入ることは許されていない。しかし、コベライトには彼女が神殿で一体何をしているかは簡単に見当がつくのである。長い付き合いだからだ。
「無駄話はこれまでだ。とっとと仕事納めをするとしようぜ」
 最近は気がつくと感傷に浸ってしまう。過去を懐かしんでいるだけでは何も変わらないのだ。だが、自分たちの目的は、動機は、過去を懐かしむ故のものである。その矛盾を自分たちはよく知っている。
 カルセドニーに命じ、バーの前で止めさせる。路地裏にあるこの店の壁の周りには無作為に瓶やら缶が散乱し、スプレーで落書きをしてあったりと、見るからに不穏な空気が漂っている。コベライトは人間の姿へ変わると、バーの扉を開けた。

 満月の夜は、嫌いだ。加瀬涼介はベッドの上で苦しげに呻いた。体中が熱くなるし、苦しいし。毎月この夜が訪れるたび一晩中のたうち回っていなければならないのだから。たまらなく喉が渇いても水は喉を通らない。飲んだところで全て吐いてしまう。早く夜が明ければいい。早く、早く。
 いつものように声を抑えようと枕に顔を押し付けているせいでろくに息もできやしない。満月の夜なんかこなければいい。近頃では月が満ちていく様子を見るのさえ不愉快である。昔は月を眺めるのが好きで秋には月見をしたものだが、今ではこの通りもはや彼にとっての瘧日である。忌々しい。なぜ自分がこのような思いをしなければならないのか。
 幸い、まだ清風にも裕美にも知られていない。慧がこのことを知ったらなんと言うだろう。きっと、過剰なほどに心配して、今後一切変身するなと言ってくるだろう。慧は涼介のこととなると、周りが見えなくなるから。
「うぅ」
 冬の夜中でも、彼の額には脂汗が浮かんでいた。噛み締めた歯茎から血が出たのか、口の中が鉄臭い。獣の慟哭を必死で飲み込んで1人苦しみ悶えているこの惨めさよ。これが正義のヒーローの姿だというのか。
(正義のヒーロー、か)
 涼介はあらためてその言葉の皮肉さを噛みしめた。なにが正義のヒーローだ。そんなもの、自分に相応しくない。ただ目についた怪人を殺して回っているだけではないか。
 悪さをしている奴を許さない、懲らしめてやる。そう叫んで剣を振り回すだけの。怪人をいくら殺しても、悪はなくならない。それ以前に、自分は殺すことでしか怪人を罰することができないのだ。ほかのやり方を考えないで、ただ焼き払い、切り捨ててきた。あちらも人間を殺すなど、さまざまな犯罪を犯してきた。誰かが裁かないなら力を持った自分がやるしかない。そうしないと、無辜の人々が被害に遭ってしまうのだから。しかし、悪人を自分ごときが断罪しているということ自体がそもそもおこがましい。だが、涼介はそのやり方以外知らない。ほかにどうしろというのだ。まさか警察に引き渡すわけにもいくまい。
 そう、結局自分が手を汚すしかないのだ。
(もし天国だとかあったら、オレは地獄行きだろうな)
 それならば、父はどうであったのだろう。覚悟を持って戦っていたのだろうか。誇り高い勇者であった父が今は地獄の業火に焼かれているのだとしたら? それすら甘んじて受けているのだとしたら? ああ、想像したくもない。正義のために戦った父が悪の怪人どものために無間地獄に堕ちたなどと。もしもそうだとしたら、閻魔に直談判してでも、この身を犠牲にしてでも父を救い出してみせる。しかし、あの父のことだ。その罪を引き受けてしまうのだろう。これでいいと、笑ってみせるのだろう。
(オレは、やっぱり覚悟が足りないんだ)
 敵といえど、だれかの一生を奪う覚悟。報いを受ける覚悟。すべてが足りない。ならば、この苦痛はその報いなのだろうか。中途半端な覚悟で戦いを続ける自分に対する罰なのだろうか。
 自分は、父の代わりに仮面ライダーの名を背負った。覚悟もしたつもりだった。だが、実際に戦うと思っていたよりも辛くて。初めて相手を殺した時のことは忘れない。剣が敵の胸にめり込んでいく感覚。糸が切れたように倒れ掛かってくる体。ずっしりと重い両手。耳を割くような悲鳴はいつだって脳の中に反響している。事切れる刹那の、恨みの籠った目は未だに胸に突き刺さったままだ。もう2度と血の臭いなんか嗅ぎたくない。もう2度と殺したくはない。もう2度と、もう2度と。しかし、それはかなわないのだ。なぜなら、自分が戦わなければならないのだから。
 憎い相手だから殺したいわけではない。心の底から殺したい敵はいる。それでも、きっと殺したところで満たされない。しかし、自分は殺すしかやり方を知らない。だから、殺すのだ。
 暗闇の世界に霞が掛かる。やがて涼介は落ちていった。いつものように、空虚な世界に。