石井好<子さんの著書をなにげなく、手にしてページくったらシャンソンの世界が怒涛の波のごとく一気に青春時代に押し流されたのだ。

その著作の題名は「すべて歌に込めて」 シャンソンと私 1989年刊、それまで大部分が未読かなと思った。

読むほどに自分の1950年から60年代が鮮明にフラッシュバックする。

勿論、その映像にシャンソンがバックミュウジックとして流れており、もうたまらない、気が狂いそう。

その興奮状態のままブログ編集となり文脈、表現に正常を欠くとしたらごめんなさい。

 

シャンソン名曲大辞典(名作112曲を網羅) 東芝EM I 

 

1954年(昭和二十九年) シャンソン喫茶「銀巴里」はシャンソンのライブのメッカ的存在となり、戦後のシャンソンブームに火がつく。

 

<当時のシャンソン歌手たちが中原淳一を語る>この談話は石井好子「すべて歌にこめて」による

高英男 「1949年(昭和二十四年)に有楽座でコンサートできたのは、中原淳一先生のひまわりがあればこそ。

            当時まだ周りは焼け野原だもん。もらった花を先生が全部飾ってくれたわけ。それで花の中で歌ったの。」

美輪明宏 「ああいう人が今いないね。」

中原美佐緒 「トータルで全部できる人が。ヘアーはヘアー。デザインはデザイン。」

美輪明宏 「つまり、感覚的にパッとすべてわかる人。色、音楽、詩、それから空間のとらえ方ね。舞台と空間のとらえ方とかね」

高英男 「そう。客席と舞台とのね。」

芦野宏 「宝塚の影響あったけれども、中原先生は、日本のシャンソン・ブームに非常に貢献された。」

 

1962年 石井好子 銀座八丁目に「石井音楽事務所」を開く。7月14日にパリ祭のコンサートを開く。

       シャンソン友の会を作り、月一回の例会コンサートを開く。

       もう一つは新人を見出すためにシャンソン・コンクールを行う。

1964年 第一回のシャンソン・コンクールでは十八歳の小林暁美がアズナヴールの「ラ・マンマ」を歌い優勝。

       第二回の優勝者は「ジョナタン・エ・マリー」を歌った加藤登紀子。彼女は二十一歳の東大生であった。

       岸洋子は同年「夜明けのうた」(作詞岩谷時子、作曲いずみたく)で日本レコード大賞歌唱賞を受賞した。

       それまでは演歌、歌謡曲ばかりが歌唱賞の対象となっていた。

       シャンソンの岸洋子が受賞したということは、シャンソン界にとっても「夜明け」であった。

 

石井好子は「パリの空の下 オムレツのにおいは流れる」(暮らしの手帖社刊)という料理随筆で1963年日本エッセイスト・クラブ賞。

そしてまたベストセラーとなる。彼女のオムレツの店も大評判となる。