捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です
よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です
追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です
死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です
マリー・ローランサン(堀口大学 訳)
二十世紀前半のパリでは、新しい試みや大胆な実験が渦巻いていた。
そんな理論や法則にとらわれることなく、自分の花園を作り上げていった。
それは、純粋に彼女の感覚だけによる美の世界であった。
高階秀爾 「詩の世界、絵の世界」 朝日新聞より抜粋
マリー・ローランサン 東郷青児
「1919年から約10年間、私がパリで暮らしていた頃のローランサンは華やかなものだった。
有名新聞や雑誌の社交欄によく名前が出ていた。
あの頃は第1次大戦の直後で、虚無と忘我の濃霧がヨーロッパ全体を包んでいて、
真理の否定や価値の転換が芸術の根底をゆさぶっていた時代。
フォービスム、キュービスム、立体派、表現主義、ダダイスム等、昨日の価値を破壊して、
新しい論理を生み出すことに骨身を削る芸術家がうようよしていた。
彼女の作品は、何時もからりと晴れた晴天で、少しばかりノンシャランなけだるさが画面を包んでいる。
アンドレ・サルモンやギョーム・アポリネールの圧倒的な批評やコクトーの詩に強い影響を受けた彼女の近代的リリシズムが当時の虚無一色にぬりつぶされたヨーロッパに甘美な夢を投げたのである。
私はローランサンの絵に傾倒したことはないが、めっぽう明るいようで案外うっとうしく、なんとなくノンシャランなけだるさが好きで、彼女の絵を今でも愛蔵している。
ローランサンのような特異体質の絵かきはもう現れないだろう。」 <朝日新聞掲載記事による>
高階秀爾、堀口大学、東郷青児の諸氏の引用文でローランサンの価値を深く受けとめる願いをこめて、引用文づくしとなりました。
ノンシャラン(仏語)nonchalant のほほんとした、無関心の、等の意味
(補記) マリー・ローランサン 略歴
1883年 パリに生まれる。ローランサンの母親は未婚のままでマリーを産んだ。
1906年 ジョルジュ・ブラックの紹介でバトー・ラヴォワール(洗濯船)のピカソの仲間に加わる。
1910年 詩人アポリネールと知り合い五年で別れた。失意のアポリネールは、志願して戦場に赴き、帰還して間もなく病死。
1920年 サロンに出品、キュビスムの部屋に展示。
1922年 ドイツ人の男爵と結婚するが、 第一次大戦の勃発で、敵国人となり二人はスペインに亡命する。
1956年 パリで死去。
アポリネールは、ローランサンとの恋の思い出の場所 ミラボー橋を唄う。シャンソン曲も大ヒットする。
ミラボー橋の下 セーヌ河が流れ われらの恋が流れる
わたしは思い出す 悩みのあとには 楽しみが来ると
日も暮れよ 鐘も鳴れ 月日は流れ わたしは残る
堀口大学 訳
「グルゴー男爵夫人」1923
(大サイズ) イメージサイズ48×67.5cm
(中サイズ) イメージサイズ18.5×26cm
(小サイズ) イメージサイズ18.5×26cm
「ヴァレンティーヌ」1924
(大サイズ) イメージサイズ50×60.5cm
(小サイズ) イメージサイズ20×24.
「母と子」1928
(大サイズ) イメージサイズ47.5×59cm)
(小サイズ) イメージサイズ20×25cm
「ギターをもつ若い女」1940
イメージサイズ55×66cm
「バラをもつ若い女」
イメージサイズ33×40cm
「ブーケ」1922
イメージサイズ21×26cm
「鳩と少女」1928
イメージサイズ21×25.5cm
「風景の中の二人の少女」1931
イメージサイズ20×25cm
「ブルーのリボン」1938
イメージサイズ20×24.3cm
「若い女」
イメージサイズ18×25cm
「若い婦人」
イメージサイズ17×25cm